2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

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少年は本棚から一冊ずつ、言葉の断片を取り出し、読もうとしていた。 読めなくてもいいから、見せてほしいんです。 そう頼み込んできた少年の言葉に、彼は従った。もともと何かを手伝えるわけではなかったけれど、少年は、手伝ってほしいとも言わなかった。 …

停滞

書くことをやめる瞬間が、彼らの世界が閉ざされる瞬間で、言葉に詰まったときが、息の根を止めてしまうときを意味する。書かれた存在である彼らが意思を持ち、こちらに語りかけてくるのを待つように、ただ原稿用紙を前にじっとしている。 雨の中の停滞はまだ…

波紋

雨が弱まっているのを、彼女は確かに感じ取っていた。海面を打つ雨の無数の波紋の、輪郭の一つひとつが見て取れる。ただ、それは降り注ぐ言葉の音が、騒音としてではなく、明瞭な声になって届き始める兆しでもあった。 誰のものかもわからない言葉の中に、彼…

本棚

言葉にならなかった言葉が文字として残るこの場所に、文字を読めない少年が来たところで何になるのか。彼の疑問を感じ取ったように、少年は言う。 「多分、ここに、僕が失くした言葉があるような気がして」 部屋の壁をぐるりと覆う本棚に、ぎっしりと詰め込…

深海

彼は少年を招き入れた。テーブルに向かい合わせに座り、改めて彼は少年の瞳を直視した。深い海の底のように、見えている世界を包み込んでいた。彼自身の姿が、その中を泳いでいた。 声を出せない彼に、少年はそれほど驚いた様子はなかった。切実に何かを求め…

来訪

破り捨てられた手紙のかけらを拾って、もとのかたちにつなぎ合わせていくように、言葉は慎重に選ばれ、文字になっていく。 そのとき、扉を叩く音がして、彼は立ち上がった。 扉を開けるとそこに、一人の少年が立っている。少年は言った。 「言葉を、いただけ…

雨音

いつまでそうしているつもりなのだろう。 その問いが一体誰に向けて発せられているものなのか、自分でもわからない。彼女を見ていることが、彼にはつらかった。止まない雨に向かって祈ることが何になるのか、彼はその問いを圧殺するかのように、唇をかみしめ…

雲間

雲間から、微かな光が漏れた。 一体誰がそのまばゆさを気に留めただろう。あまりにそれは儚くて、見間違いだとか、幻だとかいう一言で済ませるのもたやすいほどだった。 光という言葉が一筋、彼女の涙になってこぼれた。

窓際

窓ガラスを叩く雨が、強くなったような気がした。 けれど、晴れていようが雨が降っていようが、言葉を紡ぎ続けるのは変わらない。それが生きるということだと思っている。 伝えたいから書いている。それは間違っていない。 ただ、伝わったところで何になるの…

下流

構想は膨らみ続けるけれど、しかしいっこうに、その世界が現実なのかそうでないのかがわからなかった。確かなつながりを現実とは保っているものの、考えれば考えるほど、そこが閉ざされた空間に思えてならなかった。 司書である彼も、言葉を飲み込んだ別の彼…

河口

海に降る雨が止むのを待っていた彼女は、ゆっくりと傘を閉じた。雨が止んだからではない。降り続く言葉の雨をじかに浴びることが、罪を受けとめることであり、受けとめた罪を洗い流すことになると彼女は知っていたからだった。 雨音のない河口に、灰色の世界…

上流

誰かに何かを伝えたいというのはきっとものすごく傲慢な思いで、その思いが強ければ強いときほど、伝えられる側のことは何も考えられていない。 彼はそう思って、そして、そう自分に言い聞かせて、書いた言葉をすべて消した。何が書かれていたのかわからない…

岸辺

書かれたものが、書かれたものとしての存在を確立するまでの過程で、消えていったいくつもの言葉たちがある。そんな、意味をなさない言葉の断片が流れ着く場所で、それらが別の言葉に生まれ変わるのを見守っている、孤独な守り人の物語を構想していた。 遠く…

無題

伝えたいことを伝えるために、生きているということを伝えたい。 言葉だけではきっと伝わらないことを知りながら。