ごちそうさまでした、と言いたくなって

 「食はひとの生理と文化のはざまでいつも揺れている」というのは、鷲田清一氏の言葉で(※)、人間は食べずには生きていけないし、共食が人とのコミュニケーションの大切な手段とされているのは、歴史的にも明らかなことである。けれど、食に対する好き嫌いやこだわりほど、個人差の大きく面倒なものもない。「おいしい」という言葉が孕む嘘と本当、そこには、人付き合いにおける「いつもありがとうございます」が孕む感謝と皮肉に通ずる、複雑な色合いがある。

 

 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社

 

 「読みたい」以上に「読まなければならない」という気持ちが強すぎて、心の余裕ができたときに読もうと思っていたら、刊行から1年以上が経ってしまっていたのだけれど、本当に心の余裕ができたので、こうしてようやく読むことができた。一気に通読した。2019年の『犬のかたちをしているもの』を読まずに、本作から読み始めて感想を綴ることに一抹の申し訳なさはあるものの、読んだことをきちんと感想に綴っておきたくてこれを書いている。

 

 本作は、包装を手がける会社で働く人たち、それも、一部署における人間関係を、食という断面から描き出したものになっている。空腹が満たされればそれでよく、食は生命維持の手段と考える、それなりに仕事のできる男性、二谷と、その二谷と同じくらい仕事ができ、二谷を興味深く眺める女性、押尾の視点とを切り替えながら小説は展開する。

 

 職場でかわいがられ、厳しく重たい仕事をせずとも許される、料理上手でお菓子作りが得意な芦川という女性の存在を巡り、読む側の人間は、不穏で、痛快とも言い切れないものの、許しがたいとも言えない気持ちにさせられる。どこにだってそういう人間はいるだろうし、そういう人間がどうなっていくのか、そういう人間がいるその場がどうなるのか、という興味のもとで読み進め、その締めくくり方に爽快感がなくて、とても安心した。

 

 『おいしいごはんが食べられますように』というタイトルは、ご飯が別においしくなくてもかまわない二谷の視点からは、強烈な皮肉になっている。そう願う人間が、本気で、純粋にそう願えば願うほど、二谷は理解に苦しむであろう。けれど、自炊することについての嫌悪感が語られる、「おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか」の言葉(共感はできるが)とは裏腹に、彼がそうまでして、仕事とは別に何かに積極的に打ち込む描写はない。人並みに仕事もできて、恋愛らしいこともしていながら、彼の生きることに対する行動原理は何なのだろう、と思わされる(この辺りは意図的に描かれていないというか、本当に彼がそういう人間なのかもしれない、とも思う)。が、やりたいことがわからない、あるいはできないまま、惰性で生きていることを自覚しつつ、人生が自分自身の力で送れていない気がすることを許したくない気持ちは、わからないでもない。彼が最後までそういう人間なのかどうかは、小説が終わった後で、彼がどうするのかによってしか判断ができないけれど、そこが描かれていないのが、読みを多面的にするという意味では素晴らしいと思った。語りうることが多い小説、読んで語りたいと思わせる小説だと思う。

 

 また、二谷と押尾、二人の視点のうち、物語としては二谷の視点から始まるうえ、語られるのは二谷側が多いにもかかわらず、二谷のほうは「二谷」、押尾さんのほうは「わたし」と人称が分けられているのが面白かった。それは作者が、読み手のより共感の大きそうなほうをあえて一人称にしたのか、作者自身が押尾さんに共感して書いているのか、そのどちらでもないのか気になるところである。個人的には、押尾さんには引き続き頑張ってもらいたいと思うけれど、たぶんそんなことを思わなくても、押尾さんは頑張るのだろうとも思う。

 

 そして、芦川の側からは一度も語られないというのが、作品の不穏さに拍車をかけている。この世界には一定数、芦川さんのように振る舞う人間もいるだろうけれど、そういう人が本作を読んでも、おそらく絶対に自分のことだとは思わないのだろうなという気もする。甘ったるくて胃もたれがする感じである。

 

 個人的に、芦川さんに対して書かれた一文がとても好きである。

「洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた」(p.20)

 二谷のそこからの行動は矛盾にあふれているものの、抱えていても言語化がままならない瞬間を、びしっと一文で表現されたときの快さは、書き手への信頼になる。この人が書く、この人たちがどうなっていくのか、読み進めたい気持ちに駆られるのである。

 

 重たくても読んでいてしんどくない、作品としては絶品だった。

 

(※)鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい? ――臨床哲学講座』(ちくま新書