櫓を仰ぎ見る

 講義録ひもとく真昼ねむたさは書庫のにほひを伴ひて来ぬ

 

 一首目を読んだときにあふれ出した記憶に、それが今なお自分の中に確かに残り続けていることに震えた。それは紛れもない、あの「書庫」であり、絶版本や遠い昔の文芸誌のバックナンバーを読み漁りに彼と「潜った」場所である。

 

 濱松哲朗 『翅ある人の音楽』(典々堂)

 

 大学を卒業してからずいぶん疎遠になってしまったものの、それでもこの歌集が刊行されたことを知ってからは、こうしてここに感想を書かなくてはという使命感のようなものが、見えない鎖になって足元にあった。

 自分がこれまで、ここまで本を読むようになったことに、ひいては今この仕事をしていることに、彼の影響なくしては語れないのだけれど、自分のことを書いたら感想ではなくなるので控えておきたい。ただ、彼の書いたものを読むことによって、自分の中にある「書くこと」のことを考えずにはいられなかったのも事実である。

 

 そこに並ぶ歌の一つひとつから、日々を繊細に拾い上げながら、死の影に寄り添い、怒りや憎しみをたぎらせて、書き続ける自分自身と睨み合う(そして時に殴り合う)、そんな姿が浮かぶ。激しい連符がびっしりと刻まれたフルートの譜面を思い出す。

 

 書くこと、創作することは孤独なことである。楽しくはあっても、苦しい時間のほうが長いし、書いても書いても、その苦しみが消えることはない。けれど、書くことをやめることはできない。

 どこまでも真摯に書くこと、詠むことに向き合い、闘い続けること。それを、倦まず弛まず続けてきたことを知っている。自身への厳しい眼差しをもって自らを鞭打ち、それでも倒れることなく書き続けられた言葉が鳴り響き、空気を震わせ、胸を打つ。

 

 ただそれが、どこまでも真面目であることかというとそうではなくて。

 

 バック・トゥ・ザ昭和つていふ顔をして来週もまた観て下さいね

 

 と日曜19時前の風を吹き込んで、読み手にじゃんけんを促したりする。文豪と呼ばれる人間の随想を読んで、「この人たち暇だねぇ」と言い合った時間を思い出す。

 

 貰ひ物の西瓜の肌をなでながら、明日にはこてんぱんにしてやる

 

 なんとなくこの歌からは、川上弘美さんの句集『機嫌のいい犬』(集英社)に収められている「はつきりしない人ね茄子投げるわよ」が思い出され、ともに書店で笑い転げた記憶が甦った。

 

 短歌についての技術的な面で何かを語ることはできないけれど、真面目に感想を書こうとすればするほど、昔のことを思い出すのだった。

 

 氷とはみづとひかりの咎なるを鳥よこの世の冬を率ゐよ

 

 湖面に飛び立つ寒空の一羽。決して溶けない氷のような冷たさを抱きながら、水と光に生かされていることへの償いに、鳥は風の吹きすさぶ言葉の世界を羽ばたく。「率ゐよ」はまるでそれを詠む自身への命令形のようにも思え、書く者としての矜持がそこに息づいている。そんなことを思った。

 

 翻って、書くことから遠ざかってしまった自分自身のことを考える。けれど、こうしてこれを書かずにいられないくらいには、灯火のような意志が残っているのかもしれない。

 

 ぺたぺたと付箋を貼りながら読んだ一冊、付箋の箇所はまたいずれ、直接伝えます。