ふつうのなかの王様でありつづける――堀江敏幸『二月のつぎに七月が』レビュー

 堀江敏幸[著]『二月のつぎに七月が』(講談社)

 

 「一気に読んだ」「ページをめくる手が止まらなかった」というのは、面白かった本の読後の感想として散見される言い方だけれど、この本はそういう類の言葉から、遥か遠いところにずっしりと腰を下ろし、読み手が開くのを待ち続けている。

 

 730ページを、繁忙期の真っ只中にありながら、主に休日を使って約40日かけて読み終えた。小説は当然ながら、架空の人物が織りなす非日常の物語のはずだが、一気に読むなどという言葉からほど遠く、全55章を一つひとつ丁寧に読み進めたことで、この小説は日常になった。

 

 小説も散文も書評も敬愛している堀江さんの文章。それを随想や書評ではなく、『その姿の消し方』以来9年ぶりの長篇小説で、こうして読めるのはとても嬉しかった。冒頭を読んだだけで、描写の一つひとつの丁寧さが感じられて心地よく、登場人物の会話と連想から生まれる巧みな比喩が美しい。

 

 会社勤めを体調上の理由から辞めた丕出子さんは、あけぼの市場の近くにある、いちば食堂で働いている。厨房で料理を作る笛田さんを手伝って、注文をとり、配膳を行う。そんな食堂に、いつもレインコートを着て、文庫本を読み、手帳に書き写すことを習慣にしている阿見さんが通っている。

 

 いちば食堂を主な舞台として、物語は初夏から始まる。

 移る人称。視点はその3人が入れ替わりながら、それぞれが見聞きし、思い、考えたことが語られる。文章は現在の会話から、過去を想起させ、思い出された過去が降り積もり、その人が見たあの人の現在が語られる。とはいえ舞台は食堂なので、笛田さんの作る揚げたてのコロッケや串カツ、野菜炒め、きつねうどんなど、美味しそうに語られるメニューの数々を(実際に丕出子さんは毎回おいしいを連呼しながら賄いを食べている)食べたくなる思いに駆られつつ、ページをめくっていく。

 

 丕出子さんは母親を亡くしており、定年退職した父親と二人暮らしである。父親は高校野球好きで、往年の名試合の新聞記事をスクラップブックにして大切にしている。それを開いて、試合から得られるさまざまな教訓を丕出子さんに語る。

 

 店長として厨房で料理を作り続ける笛田さんも、調理師としての前職を辞めていちば食堂を任されることになった。娘の喜菜子さんは看護学校に通っている。笛田さんの視点を通して語られるのは、彼の家族のことのほかに、いちば食堂の周辺の事情である。学生時代からの付き合いのある一場さん、周防さんたちとのやりとりは、一人の人間を取り巻く関係がそうであるように、物語に多層性を生み出しているように思える。

 

 食堂にいつも決まった時間に来て、カレーライスとコーヒーを注文する阿見さんは、父の遺品である8冊の文庫本を読み、どうして父はこの本を戦地に持って行っていたのか、なぜそれが今自分の手元に戻ってきたのかを考えながら、心にとまった言葉を手帳に書き写すことを習慣にしている。会社勤めをする前、珠算塾を開いていた大松さんのところでアルバイトをさせてもらっていた過去、そこで出会った大松さんの娘である美佐子ちゃんのことを、阿見さんはたびたび思い返す。

 孤独である自分と、孤独であった文庫本の著者を重ねたり、あるいは突き放して眺めたりしながら、来し方と行く末を考える。(たびたび引用されるその文庫本にはきちんと出典があって、巻末に記載されているのだけれど、それが誰のものであるのかが、堀江さんの最高の言葉遊びの一つであり、最大の仕掛けのような気がしたことをここに記しておきたい)

 

 語られるのはあくまで彼らの日常だが、それらは何一つ平坦ではない。肉親を看取る経験や、生きながら地獄を見た出来事も、淡々と語られるようでいて、そこに語り手の温もりや優しさが感じられるのが堀江敏幸さんの文章の魅力で、服装や所作に表れるその人の生き方を丁寧に掬い取る言葉の豊かさに、静かに心打たれる。語り手となる人々それぞれの、思索の解像度が高いのである。過去を思い返して感情の筋道をたどるとき、誰もがそんなふうに連想の結び目を見つけられるものではないから、これは堀江さん自身が、それぞれの登場人物の姿を借りてしゃべっている文章なのではないかと思った。もちろん、一人の人間が複数の登場人物を描く小説とは、突き詰めればそういうものなのだけれど、読みながら、どの人間の思考にも堀江さんがいるなぁと考えていた。個々の出来事は現実的だとしても、人物それぞれの思索の深さや鮮やかさは絶妙な虚構として感じられる。

 

 折り重なる過去と、それを語る現在の会話、後悔と気づきの思索。色合いの異なるそれらが、無色透明の言葉で、「」もなく流れていく。「傑作はつらなり合うものが動いて、吹く風に似た音をたてる」という、大庭みな子の言葉を思い出す。虚構であるけれど、それは限りなく自然である。些細な会話の積み重ねと、変わらず繰り返される日常的なやりとりのなかで、まったく異なる道のりを歩んできた人々の生が交差する。会話をきっかけにして生まれる思索のなかの、惚れ惚れする表現の数々。凪いだ海に石を投じ、生まれたさざ波がその揺らぎによって日の光を散乱させるように、文章が、言葉がきらめいている。

 

 掘り下げられる登場人物の人間関係と過去。物語には種類の異なった厚みや重みが与えられていく。その一瞬、その一言、その眼差し、その一文。長い人生のなかで、些細なそれらが意味を持ち始めるということに思いを馳せる。読むことで、日常の解像度が上がっていくように思えた。

 

 丕出子さんの父が語る二塁手の動き、そこに笛田さんの語る能の身体性が重なり、その後阿見さんへ視点が移り、始まる引用と思索。食堂で交わされる日常的な会話が連れていくのは、非日常ではない。日常と地続きでありながら、現在からは遠い場所である。彼らの会話と思考に揺られるのがただただ心地よかった。

 

 全体の半分を過ぎると、物語に流れる空気が少しずつ変わってきているのを感じた。食堂に出入りする人たちを外から眺めていたのが、いつの間にか自分の視点も食堂のなかにある。丕出子さんや笛田さん、阿見さんや茅野さん山野さんと、そろそろ顔見知りくらいにはなれただろうか。そんなことを考えていた。

 

 思えば、人との関係を深めていくというのは、そんなふうに時間をかけて行われる営みなのだ。この小説は、時代背景こそ明かされていないが、インターネットもスマートフォンも出てこない。文字のやりとりと言えば手紙に限られた時代に、人と人が顔を合わせ、同じ空間で食事をし、会話をするという積み重ねの上に、見えないけれど確かな信用や信頼が芽吹いていく。それを大切に育てることの尊さを思う。

 

 どこにも行かない回送電車や、「停滞」「あわい」といったものを描きがちな堀江さんの散文だが、小説はその限りではない。過去を思い返している間にも、現在は流れ、季節は移ろっていく。My Little Loverの歌う、Hello Again~昔からある場所~の歌詞が思い出される。「夜の間でさえ 季節は変わって行く」。

 

 疲れ切っていて何もできず、ほとんど空っぽだった自分の休日に、4月から7月までの3ヶ月分の日常が流れ込む。語られる過去の重みと、進む現在に、夢と現実という新たな軸が加えられ、うねるように物語の時間は移ろう。いろいろな感情が渦を巻き、自分自身の時間と重なって流れていく。なんと美しい小説だろう。

 重力の姿勢差による影響を抑えるために作られたトゥールビヨンが、自ら回転しながら秒を刻んでいくように、この小説では一つの食堂を軸にして周囲の変化を定点観測するのではなく、その軸を担う人物たち自身も変化しながら、季節の移り変わりを刻み続けていく。だから、眺めてしまう。見入ってしまう。

 

 何もかもAIによる要約がなされてしまうこの時代に、決して要約されえない小説としてこの作品はある。読み進めている時間の中で、読み手自身の人生の移ろいが、作中の時間に重なってゆく体験は、そう簡単にできるものではない。

 

 登場人物同士の関係が大きく変化することはないけれど、共有された時間の分だけ、そこには互いの存在を認識し、相手のことを考える瞬間が増え、豊かな土壌のように堆積している。会話の種さえ蒔けば、すぐに芽を出し、花を咲かせるだろうと思わせるくらいに。

 

 読了が近づくにつれて、読み終えたい気持ちと読み終えたくない気持ちがない混ぜになっていた。いちば食堂に満ちる音、声、匂い、空気が、本を開けばそこに感じられる。それは特別なものではない。「大衆食堂の定番は突出しないこと、ふつうのなかの王様でありつづけるようなメニューを用意すること」。

 

 こんなに素敵な小説を読んだことがあっただろうか。素晴らしいという言葉で足りるはずもないが、語るほどにこぼれ落ちていくようにも感じられるこの温かな余韻を、今はただ大切にしていたいと思う。この本を読み終えられる人生でよかった。

 

 自分の人生は、こんなふうに滋味豊かに語られうるだろうか。あるいは、自分自身でそんなふうに自分を語りうるように生きているだろうか。この小説を読み、いちば食堂の人たちと顔見知りになった人がほかにいたとしたら、言葉を交わしてみたい。丕出子さんや笛田さんが語るように、一緒に阿見さんについて話をしてみたいと思った。

積雪の記録

 疲れているとき、睡眠不足のときに現れる自己は、わかりやすく弱い自分である。さっさと眠ってしまえばいいのに、そういう日に限って負の感情に首を絞められ、うまく眠りにつけないことが多い。窓ガラスの向こうから、冷たい空気が流れてくる。

 

 誰に見せるでもない思考をノートに書き出すようになって、1年以上が経った。書き出すことに意義や理由を見つけて言葉にして、達成感や満足感を得ることもあった。言語化とは、自分がやっていることが、正しいことであると思い込もうとすること。甘えと自己弁護にまみれたページが、日を追うごとに増えていく。消化できない人恋しさやさみしさや孤独感に震えながら、同じようなことを書き続けている。

 

 ――ひとりでいること。自分が今この瞬間を生きているという事実と、そこに時間が流れていることの実感を直視しなければならないことが息苦しい。

 

 よりによって今日、わざわざここに何かを書いて、公開する必要なんて微塵もなかったけれど、文章を長らく公開していないことに対する後ろめたさが、どういうわけか勝ってしまっている。もっと綺麗な文章を書くつもりだったのに、体調がそのまま思考に出ているからか、ネガティブなことばかりが面白いように浮かんでくる。そういうことをノートではなく、PC上で書き留めていると、何も変わっていない自分がわかりやすいと書きながら思った。書き言葉はたやすく真実を覆ってしまうけれど、文章を小綺麗に飾る気力がないときにしか、書けない言葉もある。

 

 ――失ったもののことばかり考えている。死にそうなくらいさみしい。

 

 感情をそのまま文字にすること。情けないと一笑に付される覚悟を決めること。共感を求めないこと。意味づけをやめること。

 

 感情が天気みたいなものだとしたら、これはただ、吹きすさぶ風の日の観測記録に過ぎない。寒さで心身が冷えているのだと思う。温かかったコーヒーも冷めてしまった。

 

 それでも自分は、そうまでして誰かに何かを伝えたいのだろうか。

 これは誰に向けて書かれているのだろう。

 

 そう思う一方で、これはたぶん、誰に言えばいいかわからなかった思いが降り積もった結果なのだろうという気がしている。雪が天からの手紙なのだとしても、ここに書かれるのは誰に届くこともなく解けていく程度のもので、横になって深く眠ることができれば、翌朝には跡形もなく消えてしまうもののはずだ。

「万年筆で何を書くんですか?」への回答

 ペンケースを鞄から取り出す。3本挿しのレザーペンケース、中には万年筆が3本入っている。Montblanc マイスターシュテュック149、Leonardo モーメントゼロ、VISCONTI ホモサピエンス。現在仕事に持って行っている3本である。別に仕事で一度に3本使うわけではなく、せいぜいどれか2本を隙間時間に使うくらいで、ボールペンやシャーペンのほうが使用頻度は高い。それでも、使えるなら万年筆を使いたいと思って、いつも鞄に入れている。

 なぜか。書いていて心地よいからである。極端に言えば、文字を書くためではなく、その心地よさを味わうために書きたいとさえ思う。道具として、ある目的のために役に立つという手段ではなく、筆記するという手段そのものが目的になり、手に収まったそれらとその筆跡を眺める時間が、それだけで完結した時間になる。それは、芸術作品を眺める時間に似ている。作り込まれた軸や、磨き込まれたペン先はとても美しい――。

 

 そんなことばかりを考えていると仕事が進まないので、実際の出勤中は本当にわずかな時間だけ逡巡する。その日の仕事や先のスケジュールを手帳に書いて、本格的に万年筆を使うのは、帰宅後や休日の話である。

 

 何を書くのか。何ということはなく、思ったこと、考えたことを紙かノートに書く。実用的なところで言えば、覚えておきたいことを日記として書いたり、次の休日に何をするかを書き出したりもする。読書をしているときは、読んでいるときに考えたことを書き、読み終えたら感想を書く。

 それが習慣になっているのは、「万年筆で書く」という行為が「心地よいから」にほかならない。紙の上を滑るペン先の感覚を味わい、その筆記音に耳を澄ませる。綴られる文字の色は深みのある黒かブルーブラックのインクで、書きつけた瞬間から数秒、乾くまでの間にわずかな色の濃淡が移ろって、視覚的にも満たされていくのを感じる(となりにコーヒーを淹れて置いておくと、香りも漂って、さらに味覚も満たされるので、五感がすべて充足する)。

 

 丁寧な暮らしを標榜するつもりはなく、ただ過ぎ去る日々を、過ぎ去るままにしておきたくないから、生きてきたこれまでと、生きていくこれからを綴っていく。

 何でもない1日でも、自分がそこにいたこと、何かを考えて生きていたことを、誰のためでもなく、残しておく。

 

 腕時計が、自分の生きている時間を確認する道具だとすれば、万年筆は、生きている自分の思考と感情を確認し、記録する道具だと言えるだろう。無論、他者に向けて言葉を綴れば、用途はその範疇にとどまらない。

 

 スマートフォンやキーボードでも文字は書けるし、保存もできるが、そこには物理的な質量がない。筆跡は均一で、バッテリーがなくなれば読めず、本体や記憶媒体の破損でその記録は永遠に消滅する。紙は捨てたり燃やしたりしないかぎりは(少なくとも自分が生きている間は)なくならない(水に濡れるとインクは滲むが)。

 

 残しておくことが、未来の再読を前提とするわけではないし、残しておいたために、読み返して傷つくこともある。そのたびに、それでも自分はその過去によって生かされていることを実感する。書いた瞬間の現在が、正しく過去になっていることを知る。書かれた瞬間から今までに、流れた時間を思う。そして、同じ人間であるはずの自分が、他者になっていることに気づく。

 

 大人になると、よほど変化の激しい仕事をしないかぎり、日々はある程度予想の範疇のなかで繰り返されていく。その繰り返しを、ただ過ぎ去ってまた巡るだけのものでなく、目印の存在する螺旋階段を登るように踏みしめていくには、書くという行為が必要なのだ。

 

 書く行為が日常になると、書かなかった日は、書けなかった日として残るようになる。ノートに刻まれた日付と日付の間に、多忙だった、あるいは体調を崩していたその日の自分がいる。思い出すことで、忘れずにいられる。

 

 昨日の自分よりも成長していたいなどと、自己啓発めいたことを言いたいわけではない。意味や価値を求めて書いているのではなく、これらはすべて、「万年筆で書くことが心地よい」という理由から書かれたものであり、浮かび上がる思考や感情はその結果でしかない。言葉にならないまま、消えていくだけだったかもしれない思いが、綴られ文字になり、紙に刻まれる。書かれたことは歴史になり、書かれなかったことは、なかったことになる。なかったことにするよりは、未来の自分か誰かが、いつかどこかで読み返してほしいと思う。

 

 人が趣味や娯楽に興じる動機は、大体においてそれが「楽しいから」である。一般的に言って、筆記具は道具なので、何かの目的のための存在だと思われている。けれど、一度書き味を知れば、それは立派な趣味や娯楽になりうる。他の趣味や娯楽と同様に、どうしようもなく「楽しいから」だ。

 

 万年筆が趣味であることを伝えたうえで、複数本所持していることを説明したとき、必ず聞かれるのが「何を書くんですか?」という素朴な疑問であり、そこには「なぜ万年筆で書くんですか?」という問いも包含されているのを感じる。

 万年筆で何を書くのか。なぜ万年筆で書くのか。万年筆を使い始めてようやく3年ほどが経った今の自分に書ける答えとして、ここに残しておく。

 

 自分の筆圧や筆記角度、書き癖に合わせて調整された万年筆で書く悦びは、何ものにも代えがたいものがある。ペン先は「育つ」。書き続ければ、そのぶんだけ自分の手になじんでいく。だから、ここに書き連ねたことも、万年筆を使い始めてたった3年の感想に過ぎない。5年、10年と経ったとき、もしかしたら表題への回答も、まったく別のものに変わっているかもしれない。

 

【後記】

 万年筆で書くという行為を通して、書くという行為そのものについてずいぶん長く考え続けている。そろそろそれを、なかったことにはしたくなくて、こうして文章にまとめることにした。

 本当は、万年筆の楽しさや面白さ、魅力をわかりやすく伝えたいという思いもあったのだけれど、ありがちなテンプレートに載せて、心にもないことを書き連ねるのは何も楽しくも面白くもないのでこうなってしまった。実際に書いている人間が、書きながら考えたことをまとめたほうが、読み手に対して真摯だと思う。

 

 万年筆の何が良いかって、私にとっては極上の書き味の一言であり、本当に良いものを使って実際に書きつければ、その素晴らしさはわかっていただけると思っている。「街に出よ、試筆せよ」と言いたい。高級文具店であろうと、試筆のハードルは高くない。店員さんは優しい人たちばかり。とにかく手に取って、薦められるままに書いてほしい。何を書くか。そんなことは後から考えればよくて、書き味の心地よさに沈めば、使う理由は後からいくらでも出てくるはずだ。書くことが思い浮かばなければ、「書くことが思い浮かばない」と書けばそれで済む。文学作品の書写だって、立派な筆記活動であろう。

 

 あらゆるものの相次ぐ価格改定の告知に辟易する日々だが、殊に万年筆においては、数年で途方もない価格に跳ね上がり、そのせいで、将来的に市場から消滅しかねないのが恐ろしい。自分にできることなど雀の涙にもならないけれど、万年筆を通して書くという行為がどういうものか、少しでも伝われば、そして、試筆しに行ってみようかなどと思う人がいたら、これ以上ない幸せである。

降り積もり、流れ、めぐるもの

 旅先で読み通した1冊。物語の核心には触れず、感想を綴っていく。

 

 朝吹真理子『Timeless』(新潮文庫

 

 好きな人と子供をつくるのはこわい、とアミは言う。それならば私と交配しようか、とうみは言った。お互いに恋愛感情のないまま、うみとアミは結婚する。うみは、誰かを「いとしい」と思う感情を抱いたことがなく、アミもうみにはその気持ちがない。人間でないものに生まれ変わるとしたら、クラゲになりたいと話すうみ。海を漂い、流された潮目に結婚があったというように、強い意志や信念とは遠い感覚で、その生活は始まる。

 

 そこに至るまでの出来事や、うみとアミの会話は、高校時代の修学旅行先の広島に飛んだり、江戸時代の東京を想起したり、二万年前にさかのぼったりする。何の脈絡もないけれど、それらすべては同じ地球上の出来事ではある。

 

 読み進めていくうちに、過去は現在に侵食し、時間の感覚は乱れていく。小説は言葉でできているから、数文字で数百年分を書いてしまえるし、逆に一秒に満たない時間を数十ページ使って書くこともできる。ページをめくっていると、今一体どれくらいの時間が経っているのかわからなくなる。その時間が、自分の生きている時間として積もっていき、自分という人間をつくっているのだという感覚が漠然とこみ上げてくる。

 

 「降り積もり」、「流れ」、「めぐる」のが時間である。土地に降り積もった時間が歴史になり、人がそこに生きていた事実が、街の中に残り続ける。流れ去る時間は人を生から死へと緩やかに連れて行く。めぐる時間は親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。

 

 江姫が弔われた六本木、原爆資料館の広島、高校時代の放課後の会話、潮目に流されるクラゲ、庭に出続けるアオダイショウ、交配するために生きて死ぬだけの蚕――

 

 時間がそこに降り積もっていること、流れていたこと、めぐっていることを、うみやその子供の人生が実感させてくれる。だからどう、というわけではなく、それはずっと変わらずそういうものだということを、理屈ではない実感として与えてくれるものだった。時計で目に見える時間は恣意的なものでしかなくて、移ろう季節や出会う人たちとのめぐり合わせが降り積もったものとして、時間は浮かび上がる。

 

 核心に触れずに感想を述べるのが難しい小説ではあるけれど、下手な抽象化によるまとめが意味をなさず、読んだ実感を実感そのものとして大切にしたいと感じられた。それは小説として、一つの作品として、たまらなく素晴らしいものだと、個人的には思う。時間について考えながら、時間を忘れて読めた本である。

腕時計に見る「存在と時間」

 高級腕時計専門誌CHRONOS日本版編集長の広田雅将氏は、「腕時計は自分の生きている時間を確認するもの」だと述べている。それは言葉を換えれば、腕時計とは、自分の存在を確かめる道具であるということだ。それをさらに敷衍すれば、腕時計は、今ここに「私」が存在する(している)ということを了解させる道具であり、工芸品であり、芸術作品である、と言えると思っている。

 

 それが三針の時計なら、秒針の動きによって、今自分がここに生きているという時間を確認することになる。機械式の自動巻き腕時計は、装着した自分の左腕の動きによってローターが回り、ゼンマイを巻き上げて針を動かしている。自身の動作が腕時計に命を吹き込み、その振動によって回る三本の針が、自分の手元で、自分の生きている時間を教えてくれる。

 二針の時計なら、今ここに自分が存在していたこと、そのときそうあったことを、時間が流れたことによって実感することになる。つねに動いているようには見えない分針の動きは、時間の流れを事後的に教えてくれる。

 

 三針であれ二針であれ、眺めることでそのような思考に導かれるのは、機械式腕時計が、「ただ時間を示すだけの道具」ではないからだろう。それが単なる道具なら、時刻を表示するという役割だけを受け取って、腕時計は意識に上らない次元に埋没していくだけである。本当に道具としてのみ使うのなら、それでもよいのかもしれない。

「あと何分でこの仕事を終わらせなければ」「今14時だから来客まではあと1時間ある」など、何らかの目的に即したものとして、流れている時間・時刻を確認するなら、スマートフォンで充分であるし、PCのデスクトップにもつねに時刻はデジタル表示されている。

 しかし、何の目的のためでもなく、時間の流れを確認することそのものが目的となるとき、腕元にあるのがスマートフォン機械式腕時計であるかによって、感じられるものの違いは大きい。

 

 職人によるマニュファクチュールで作られた腕時計には、ブランドの理念や価値観が体現されている。それを身につけることは、そこに込められた思いへの共感であり、自分もそうありたいという姿勢の表明にもなる。

 細部へのこだわりが洗練された腕時計を身につければ、自分の仕事にも、細部まで一つひとつ手を抜かないでいようと思える。美しい外装を持ちながら、300m防水まで備えた腕時計は、他人の目に自分がどう映るかを意識しながらも、専門性や得意分野の品質に妥協しない姿勢を意識できる。

 

 こうありたい、こう生きていたい、そんな理想を投影したものとして、しかもそれが、具体的で美しい造形を備えた存在として、自分の腕に、つねに目の届く場所にあるということ。現在の自分の生きている時間を確認し、今ここにいることを了解させながら、その小さな部品の一つひとつに込められた思いや、長く身につけることによる愛着が、これから先を生きる自分の時間に彩りを与えてくれる。だからこそ、そこには相応の価値があるし、手のかかったものには、それに見合うだけの金額を払ってもよいと思える。同時に、高額な買い物であるということは、その購入が、それまで自分が仕事を頑張ってきた証でもある。過去の経験が、現在の自分を肯定し、未来にありたい姿を思い描かせてくれる。

 

 だから、欲しい腕時計を考えて思いを巡らせることは、単に自分が惹かれる視覚的なデザインの好みを考えることだけでなく、これから先の時間を自分がどのように生きていたいかを考えることでもある。

 

 ブランドのたどった歴史、掲げられたコンセプト、デザインに体現された理念や価値観を知ると、実物を腕に乗せたときにこみ上げる思いも変わってくる。

 

 そんなふうにして、仕事においてこうありたいという姿を突き詰めるようにして腕時計を選び、納得のいく買い物ができたと思ったら、今度は仕事では必須の秒針や日付表示のない腕時計も気になるようになった。

 

 時針と分針だけの、よりシンプルな腕時計。洗練された用の美をもった工芸品的な腕時計から、用の美を視覚的な美が超越した、芸術作品のような腕時計への移行。
一つひとつの仕上げが美しい二針の腕時計は、秒針がないにもかかわらず、ただただ目が惹きつけられ、見入ってしまう。見とれてしまう。時間を見るものであるはずなのに、時計を見るという行為そのものが目的となってしまうのである。

 

 休日。何の目的にも縛られることのない、純粋な行為として腕時計を眺め、分針が動いていることを確かめる。そこに過ぎ去った時間がもたらす現在の充足は、消費の対極にある、浪費としての贅沢だと言えるかもしれない。手段そのものが目的となる、そんな行為に耽溺することこそ、豊かな時間に浸った証である。

 

 時間を知るための道具であるはずの時計は、時間を忘れさせることで、豊かな時間を提供してくれる芸術作品へと変貌する。時を計る道具でありながら、見るものに時間意識からの解放をもたらすという逆説的なあり方は、考えれば考えるほど不思議である。だとすると、この腕時計を設計した人々や、組み上げた職人たちは、そこまでの思いをこの腕時計に込めていたのだろうか――。

 そんなことを考えてまた腕元に目をやる。長針と短針の調和、文字盤の仕上げ、ベゼルの加工……またしても見とれているうちに時間が過ぎ去ったことに気づいて、それはそれでとても穏やかな気持ちになるのだった。

情理を対等にすくいあげること

 高橋和巳『悲の器』(河出文庫

 

 法学者の正木典膳は、癌を患った妻静枝の死後、家政婦米山みきと関係を持つが、知人の娘である栗谷清子と婚約し、米山みきから婚約不履行として告訴される。それをきっかけに、法学者としての正木典膳が崩れ、転落してゆく過程が描かれる。

 

 手に取ることになったきっかけは、竹西寛子氏の追悼文(『ものに逢える日』に所収)だった。人間を描くのが小説であり、人間を描くには、言葉にならない心情を個別具体的な場面や情景に落とし込んで表現し、それによって普遍へと至る道筋を示唆することが必要だと思っていたのだけれど、竹西氏によれば、高橋和巳の長篇小説は「人の情をおとしめず理もまたおとしめず、そのいずれをも対等にすくい上げながら表現にあずかろうとする執拗な意志」が魅力だという。

 「論じることもまた同様に人間らしさに根ざすものだと作品自体で感じさせてくれた日本の小説を、私は一体どれほど読んでいるだろう」と綴られた一節が、長く自分の心にとどまっていた。

 

 『悲の器』には、戦後の日本において、法という秩序のあるべき姿を考え抜くことに自身の人生を賭け、その仕事の忙しさと重責を盾に家庭と向き合わぬことを正当化した人間の堕ちていく様が描かれている。大学では教壇に立ち、自室では書物に向き合い職責を全うする正木に尽くし、病床の妻静枝の身辺まで世話した米山みきを、自身の論理によって裏切る彼は断罪されてしかるべき人間ではあるが、この小説の面白さは、単なる善悪で片付けられるものではない。

 

 告訴され、裁判が行われることは冒頭で明かされる。だから読み手は、正木がそうなるに至った過程を、彼の語りに沿って読み進めていくことになる。法に精通し、法学者の権威に昇りつめた彼がなぜ破滅に至るのか。徐々に明かされていくのは、彼が内に抱えた矛盾の綻びが、やがて大きな亀裂になっていく様である。

 

 竹西寛子氏の追悼文では、高橋和巳の「私の小説作法」からの引用があった。

 「ある愛の〈観念〉をもった人間が、その観念のゆえに身をあやまってゆくとして、何の観念も持たず上手に処世してゆく人よりも、私はその観念の持ち主に味方したい」

 

 ここに書かれている「ある愛の〈観念〉をもった人間」の一人が正木典膳なのだろうと読みながら思った。完璧な人間などおらず、いかに他者のために尽そうと考えても、自身を生かすための欲求は存在するし、自身の欲のみに忠実に生きるにしても、他者の存在が不可欠なのは言うまでもない。

 

 自らの論理を貫こうとしながらも、矛盾する内面によって破滅する一人の人間の姿。そこには、透徹した論理への憧憬が、ひとときの感情によって否応なく揺さぶられる人間臭さがある。突発的に湧き上がる感情に、後付けで確固たる論理を組み上げ、自らを守ること。そうせざるをえなかったと自らを納得させ、過ちを正当化すること。引き裂かれそうになる自己を守るために、論理にすがるのもまた、人間らしさである。

 正しさは一つではなく、誰もが納得できる道も存在しないのだとしたら、矛盾する内面を抱いて生きる人間と人間は、どこに折り合いをつけて生きてゆけばよいのか。

 

 500ページを超える長篇に存在したのは、答えではなく問いである。

 

 そのような問いから目を背けることもまた人間らしさだと言えなくもないが、人間として生きるなら、そこにある矛盾にじっと向き合い、考えることを続けたい。

 

 竹西寛子氏は、『悲の器』を指して「人がものに感じることのあわれと、ものを論じることのそれを、ひとつ作品の中で矛盾なく統一しようとした企て」だと述べている。「情と理の行使への意志」である高橋和巳の作品は、自分自身の文学への向き合い方に、新たな方法と視座を示してくれたように思った。

 

 『邪宗門』を読み終えて10年が経ち、当時は難しいと思った『悲の器』をようやく通読できたことが喜ばしい。4月30日に読み終えてから知ったが、5月3日が高橋和巳の命日だった。竹西寛子氏の文章には到底及ばないけれど、死後54年が経った現代に読者がいることの証として、これを刻んでおきたい。

飽和する紙と満たされぬ手書き欲

 手元には、15種類の紙がある。

 A5が大半だが、ノートやメモ帳、メモパッドにシステム手帳のリフィルも含むと20種類は越えている。書き心地の良さ、まだ見ぬ書き味を追い求めているうちに、(知らぬ間に)自然と増えていった。よく使う紙も、あまり使わない紙もあるけれど、同じ書き応えのものはない。

 そんな紙の一つひとつに触れていくというよりは、今回は手帳の話に絞って書いていこうと思っている。これまで、ノートを使い切った話を過去に書いたことがあるが、今回はその逆、ノートを使いこなせなかった話である。

 

 手帳あるいはメモ帳を持って出かけることに、憧れはずっとあった。ポケットに1冊、愛用するペンを1本携えて出かける。街を歩き、川原を歩き、公園を歩いて、ふと思いついたことをその場でメモする。自分の感性が、都市や自然と触れ合うなかで共鳴し、ひらめいたことや考えた結果が言葉になり、それが消えてしまわないうちに、忘れずに書き留める。書き留めておいたことを帰宅後に並べ、それをまとまった文章にしていく――そんな姿に、今なお妙な憧れを抱き続けている。

 

 だが現実において、そのようなことは起こりえない。当然である。メモ帳を取り出すより先に、左手がポケットのスマートフォンに伸びる。周囲にたくさんの人がいる場合は余計に、人目をはばからずにメモ帳とペンを取り出す選択ができない。万年筆で書こうとすれば、キャップを外してどこかに置くか、ポケットに入れなければならないという手間もある。そもそも気ままに出歩くという機会より、行き先や目的があって出かけることのほうが多いのだから、頭の中はその日に買い足す日用品や、夕食に食べたいものだったり、翌日以降の仕事のことだったりが駆け巡っている。

 こうして書いてみると、忙しなく生き急いでいるようで悲しくなるが、その自覚があるからなのか、わかっていてもPlotterのシステム手帳(バイブルサイズ)とMontblancの万年筆を鞄に入れて出かけることをやめずにいる。何かを書きたいという欲求だけが、亡霊のようにそこに存在し続けている。成仏させようとペンを取り出してみるものの、書き上がるのはせいぜい買い物メモかToDoリストなのだった。

 

 これではいけない――強く思った。

 どうして上質なプエブロレザーのシステム手帳に高品質なリフィルを揃えて、自分はその日限りの買い物メモなど書いているのか。

 あまりに虚しい憤りだが、それでも何とか、せっかく購入したシステム手帳を使う方法を考える日々が続いた――いや、長くは続かなかった。

 システム手帳という媒体が今の自分に合っていない。そう結論づけたからである。

 

 リフィルを組み替え、インデックスを配して思考の跡やアイデアを分類できる自由さがシステム手帳の特徴だが、その自由さと柔軟性ゆえに、うまく存在意義や役割を与えられなかった。どう使うのが最適なのか、使うほどにわからなくなっていくのである。

 いったい、自分は何を書きたくてこれを持ち歩いているのだろう。メモがしたいのか、アイデアをまとめたいのか、じっくり物事を考えたいのか――。やろうと思えば全部1冊でできてしまえるからこそ、何に使えばいいのかよくわからないまま、中途半端な状態で、鞄の中に入れられ続けていた。

 

 リフィルを差し替えられる自由さも理由の一つなのだろう。1ページずつ、書き続けたものが蓄積され続けることは、書くことに向き合った時間の集積であり、その厚みを眺めたり、改めて書いたものを読み返したりすることが、次に何かを書くためのエネルギーになっていくのだ。システム手帳にはそれがない。

 かつて、A5の365ノートを使い切ったときのことを思い出すと、そこには確かに、1冊を使い切ったという達成感を目指すことがモチベーションとしてあった(その後継として購入したトモエリバーのノートは、トモエリバーの紙質が薄いために、1枚ずつ書くのなら問題ないのに、束になった紙の柔らかさが書き味を損なってしまうという理由で、使用頻度が減っていた)。

 

 そこまで考えると、もう一つ、見えてくるものがある。

 A5であること。そのサイズ感である。

 所有している紙の大半が、A5サイズのメモパッドやノートであり、それを埋めることが習慣的に最も長く自分の中に定着していることを考えると、結局自分は「A5の紙に思考を文章として残したい」のだということに思い至る。

 外に出かける際の携帯性を重視したり、ポケットからさっと取り出す憧れを追い求めたりするのは、どうやら見当外れな発想であるらしい。実際に、A5よりも小さなメモやノートを持ち出したとき、そこに文章を書こうとすると、一文を書き終える前に行を折り返す頻度が高く、さらには思考がまとまるより先に1ページが終わり、窮屈さを覚えると同時に、明らかに書き足りないという感覚もあった。書き上がった1枚あるいは1ページだけを見返しても思考は完結しておらず、再読をするのも手間取ることがわかって、もどかしい思いをすることが多かったのである。

 

 文章を書くには、A5の横幅がちょうどよい。自分の一文の長さの呼吸が、そのくらいの長さなのかもしれないと思う。文が終わらないうちに改行する回数は、できるだけ少ないほうがいいし、改行時の折り返しが、きちんと文節と文節の間に来るように書けるのが望ましい。もともとA5がちょうどよかったのか、長らくA5サイズで書いているからいつの間にか文章の呼吸がそうなってしまったのかは判然としないが、とにかくA5かつノートであることが、自分の求める条件なのだろう。メモはあくまでもメモとして、別のものを使えばいい。

 

 そうなると、ならばなぜ、現在自宅にある数種類のA5ノートから、外出用のものを選ばないのかと考えたとき、浮かび上がってきたのは、「カバーがレザーではないから」という謎のこだわりだった。

 

 ここ数年で革製品を愛用するようになって、レザーのシステム手帳を持ち歩きたいという憧れもあったから、Plotterを購入したという経緯もある。また、無造作に鞄の中にノートを放り込むことを考えたとき、表紙や中のページが折れ曲がってしまうのを避けようと思うと、丈夫な素材の表紙や、ゴムバンドが付属しているものが望ましいが、同時に180度開くという条件も必須になる。ゴムバンドはなくてもいいとしても、書き味が好みの紙質で、それなりのページ数があって、表紙が丈夫なものでありながら、Plotterのプエブロレザーのカバーのように所有欲を満たしてくれるもの、となるとなかなか難しく、これに書きたい、と思えるものは見つからないのだった。

 

 それでも、ようやく自分にとって最適の筆記形態が見えてきた(A5サイズの紙を、しかもメモパッドのように切り離せるものではなく、ページを蓄積できるノートという形で使いたい)のだから、何とかしてそれを叶えたいではないか、と文具店に行って、いろいろと考えてみた。

 

 たどり着いたのは、レザーのノートカバーである。

 好きなA5ノートを買って、好きなレザーのカバーで保護し、持ち運ぶ。これしかない。いや、これこそ求めているものではないか。カフェでレザーのカバーを開き、万年筆をレザーペンケースから取り出し、コーヒーを飲みながら考えたことをノートにまとめる自分の姿が思い浮かぶ――。

 

 ただ、まだノートカバーは購入していない。それは、レザーがあまりに奥深い世界だからである。お手頃なものから、Montblancの万年筆に匹敵する価格のものまで幅広い。素材による手触りの違いや、色味や艶の経年変化を考慮すると、さらに迷いは深まってしまう。

 

 こうして、紙選びからいつの間にか、革選びの世界へと足を踏み入れていた次第である。納得のいくものを、時間をかけて選ぶこともまた楽しく、時間をかけたからこそ愛着も湧いてくる。趣味の世界だからこそ、意味よりも価値を求めたいと思う。