何かを伝えたくて言葉を並べる。人が文章を書く動機には、伝えたい思いや考えが存在するのが当然で、誰かにわかってほしいから、それを言葉にしようとするものである。
書きたいから書く、読まれるためではなく自分のために書く、というのであれば、わざわざブログに書く必要はなくて、ここに書くからには、それは誰かに読まれるものとして意味や価値のあるものでなければならない――。そんな思いはいつしか強迫観念のように自分の内側に根を張っていた。
万年筆でノートに言葉を綴ることが徐々に習慣化していくなかで、ブログのあり方に迷いが生まれ始めている。書きたいことを書くだけなら、万年筆でノートに書くだけで完結してしまうからだ。自分自身の気持ちを自分で整理した後、それを改めてブログに書き、ましてや公開する意味はない、という思いがここ最近、特に強くなっていた。
今回ここに書こうと思ったのは、そのように考えるようになってしまったきっかけに、1本の大切な万年筆の出会いがあり、それについては、きちんと書き残しておきたいと思ったからである。それはたぶん、誰かのためではなくて、他ならぬその万年筆のためなのかもしれない。
以下は、オノト マグナ トランスペアレント――夏目漱石も愛したオノト(ロンドンのデ・ラ・ルー社)の万年筆の購入経緯と使用レビューである。
書き味を追い求める旅をしてきた。
それは、シャープペンシル、ボールペンの沼に沈んで以降変わらない。重さや素材、重心などの要素はあるけれど、シャープペンシルは替え芯で、ボールペンはリフィルで、書き味の大部分が決まってしまう一方、万年筆のニブは字幅、素材、形状、調整の有無、インクや紙との組み合わせなど、数えきれないほどの要素が書き味を決め、同じものでも個体差が存在している。そのなかで何を好むかは、人それぞれの感覚や用途、筆圧によって変わってくる。自分が求めているのは万年筆ならではの柔らかさや滑らかさなのだが、単に軟調ニブが好きというわけではない。柔らかくてもある程度の書き応えを感じられるものが、筆圧が要らないのに適度な筆記感が得られるものが好きである。
4月の終わり、ヴィンテージ品を多く取り扱う名古屋の某万年筆店にて、それを購入した。三度目の訪問だった。一度目は、2024年の5月、現行品のMontblancマイスターシュテュック149を購入し、調整もしてもらって間もない頃のこと、ヴィンテージ品の知識は皆無で、何が現行品と違うのか、その価値がよくわかっておらず、何も買えずに店を後にすることになった。試筆させていただいたものがいずれも繊細で柔らかくて驚いたのと、中古でありながらそれほど高価なのかと思ったのを覚えている。
二度目は、2025年の11月、ヴィンテージ品ではなく、Montblancの作家シリーズを買いに訪れた。2005年の限定モデル、セルバンテスである。このとき最終的には初志貫徹したものの、試筆させていただいたヴィンテージ品の書き味はどれも素晴らしかった。その手応えはセルバンテスを上回っていたのだが、価格も同様に上回っており、そのときは断念せざるを得なかった。結果として欲しかったものが買えたはずなのに、帰り道でどこか、妥協してしまったような思いがあり、満足感よりも、手に残る柔らかな書き味に後ろ髪を引かれる思いのほうが強かった。その思いはすぐに、次にここに来るときは一切の妥協を排し、自分が最高だと思える1本を買おうという決意に変わった。
三度目の訪問は、その約半年後、今年の4月下旬となった。二度目の訪問時にはなかったそれが、オノト マグナ トランスペアレントである。相当な覚悟と決断を要する価格だったけれど、前回の訪問で書かせていただいた、一番高い万年筆よりは安かった。とはいえ、その価格を見たときから、書き味もおそらく相当素晴らしいに違いないと想像し、自ら期待を高めていた。HP上でもおすすめ品の一つとして紹介されており、自分が次に行く日までに売れてしまったら、それはもう縁がなかったものとしてあきらめる気でいたけれど、GW目前を、在庫がある状態で迎えてしまった。一応それ以外にも候補はあったので、それも含めて試筆させていただかなければ始まらない、そんな気持ちで名古屋に向かい、いざ対面となった。その瞬間の衝撃は、ずっと忘れられないと思う。
くり返しになるが、その書き味については幾度となく想像していた。絶対に柔らかくて、ほどよくしなる感じなのだろう。けれど、オノト マグナはその想像を遥かに超えてきたのだった。柔らかい、というのは間違いないのだが、ある程度の硬さはあって、しなりが大きいわけではない。なのに非常に滑らかで、EFくらいの字幅でありながら、自分の持っているEFの万年筆のどれよりも紙への引っかかりを感じにくく、ニブは優しく紙の上を走り続ける。硬さと柔らかさ、滑らかさと書き応え、本来ならば矛盾するはずの筆記感が共存していて、それが独特な癖を生み、病みつきになる。別世界だと思った。柔らかさで言えば、これ以上のものはいくつもあるだろうし、滑らかさについても、インクフローが潤沢なものは探せば見つかると思う。でも、この独特の書き味は、他の万年筆を試筆しても、マグナにしか感じられなかった。そこに、漱石の愛したオノトのものであるという歴史的事実がとどめを刺した形である。
1930代のものであり、漱石の没年より発売は後のモデルなので、彼が実際にそれを愛用していたわけではないのだけれど、オノトがすでに存在しないブランドとなった今、これを手にすることで、漱石との歴史的なつながりを感じられるというのは、何ものにも代えがたいロマンがあると思った。しかしながら、そのようなロマンすら後づけのような気がするくらい、書き味が異次元だった(と、そのとき試筆した跡がノートにも残っている)。
思い返せば、2024年の5月に初めて来店したときに試筆させてもらった万年筆のなかにも、オノト マグナがあったことがまだ記憶に残っていて、店長さんにそれを伝えたら、「あのときのものよりこちらのほうが、モノは確実に良いです」とのこと。そして複数の万年筆を試筆しても、やはりマグナを手に取ってしまう様子を見て、「今うちにあるもので、マグナと匹敵するのはそれ(二度目の来店時に試筆させていただいた、一番高いもの)ぐらいですね」と説明された。それを聞いて安心する自分がいた。今ここでマグナを購入することは、絶対に妥協にはならず、前回のような後悔が生まれようがないからである。価格が価格なので、おそらく1時間以上悩んだと思うが、状態の良いヴィンテージ品との出会いなど、まさに一期一会であり、何度試筆しても手が求めてしまう書き味がそこにあったので、そのご縁に身を委ねることに決めたのだった。
実際のところ、購入から3ヶ月ほどが経った今、後悔は微塵もない。それどころか、マグナ以外の万年筆の使用頻度が激減してしまった。それほどまでに、この書き味は極上である。そして使い込むほどに、軸のデザインの美しさにも愛着を覚えるようになってきた。不思議なほど、手持ちの腕時計と並べても調和する。見た人が、そのデザインやオーラ、風格を称賛されるのを聞きながら、そこに自分自身も最近になって納得するようになっている。そのくらい、デザインは後回しにして、書き味で選んだ1本である。
筆記具1本に、ましてや万年筆に、そこまでのお金をかけることが理解されがたいのはよくわかるけれど、心の底から愛着を覚え、手が求めてしまうくらい素晴らしい1本を所有すると、生活や人生そのものが変わっていく。
ヴィンテージ品ゆえの不便もあり、2日ほど書かない状態が続くと、ペン先は乾いてしまい、再び書けるようになるまで時間がかかったり、繊細な軸なので頻繁な洗浄は避けて、インクがなくなったら補充する形で、1種類のインクだけを延々と入れ続けるのが望ましかったりする。2日に一度は少しでもペン先を紙に走らせる必要があるのは、手巻き式の腕時計のリューズを巻く必要があるのに似ていて、自分から道具に関わる必要性をもたらすものだ。インクは大好きな色と粘度である、Tag Stationeryの濡羽色に固定して使い続けている。
この夏、そのオノト マグナを手に、漱石のゆかりの地である道後温泉を訪ねた。このブログ記事は、道後温泉の旅館で、マグナを使ってノートに下書きをしたものである。忙しい日々が続くと、なかなか万年筆を手に取れないことも多かったので、手書きの欲求を満たしたかったのもあるかもしれないが、2時間ほどぶっ通しでこれを書いていた。こんなふうに、かの文豪たちも書いていたのだろうか、とそんなことを考える。
書き味を追い求める旅に終わりはないけれど、今は、オノト マグナに引けを取らない万年筆を探したい気持ちより、別の万年筆を買ってマグナが使えなくなる(使用頻度が低下する)ことが堪えられないという思いが大きい。
終着駅で列車を降りることは、一つの終わりであり、新たな旅の始まりでもある。ようやくたどり着けた満足感に浸りながら、新たに目に映る景色を楽しみ続けたい。
毎日使う道具は、自分が生きている限り、ずっと手元にあり続ける。一生ものを手に入れることの歓びは、自分の人生を静かに後押しし、豊かにしてくれると思う。
この記事が、誰にとっての何になるのかはわからない。誰もが買える筆記具のことではないし、共感されるよりは敬遠されそうな気さえする。とはいえ、趣味というのはそういうものであり、ただ自分が心地よいからというだけでも、それを突き詰めることに何らかの意味はあるのではないかと思っている。ささやかでも確かに、それは生きる理由になる。