頂への道しるべ

 書くという行為の追究と、それに対する欲求が、衰えることを知らない。シャーペンやボールペンへの愛着から、書き味を追い求めて万年筆に手を出したのが昨年9月。マルマンのルーズリーフから、山本紙業のWriting Padをはじめとする紙の比較にのめり込み出したのが11月だった。円安による値上げ確定の後押しもあって、増え続けた万年筆だったが、2023年は、節目以外には高額な万年筆(1万円以上)は買わない、という自分のルールを決めた。(「高額な」という条件があるために、比較的安価なものだったり、セール品だったりは3月までに2本購入していたりするが)そうしてすでに10本の万年筆が手元にあるという状況で迎えた4月。35歳の節目となる誕生日には、モンブランの万年筆を買おうと決意していた。

 

 正直なところ、もっと遅くなると思っていた。筆記具の王様とも言われるモンブラン。万年筆を使い続けていると、そのフラッグシップモデルとして、多くの人々に愛され続けるマイスターシュテュック149の存在が気になってくる。パイロット、セーラー、プラチナ万年筆といった日本の企業が作る万年筆も、その形状をリスペクトして作られたと思われるものが多い。そんな、いわゆる万年筆らしい万年筆の形の1本は、古臭さも感じられたり、(何より万年筆を初めて購入してから1年も経っていない)自分にはまだ早いと考えたりしていたのだけれど、3月に初めて店頭で試筆をしてみて、149よりひと回り小さいモデルである、マイスターシュテュック146(ル・グラン)のプラチナラインを、必ず4月に買うと決めたのだった。それは、10本の万年筆をそれぞれ書き味わってきたゆえにわかる良さであり、愛される理由を知った瞬間であった。

 

 モンブランの万年筆の何がそこまで素晴らしいのか。それは端的に言えば、「書くという行為に没頭できる」書き味にある。
 万年筆に惹かれ始めた当初は、その書き味の柔らかさだったり、重さによる滑らかな筆記感だったりの味わいが心地よくて、その違いを比べながら書くことに楽しみを見出していた。それは今なお変わらない幸せであり、ペン先がすり減って、自分の書き癖に沿って育っていく実感もある。硬さ、柔らかさ、インクフローの潤沢さ、渋さといった指標から、それぞれのペンにある特徴と向き合い、思い通りの色で自分の字を書く幸せがそこにある。書き味が良いから、ずっと書いていたくなる、そんな幸せである。
 ところが、モンブランではその幸せの次元が一つ違っていた。試筆したときに感じた衝撃で言えば、それは「無」による衝撃だった。書き味という、味覚になぞらえた表現を延長して言えば、モンブランの万年筆は、「めちゃくちゃ美味しい水」あるいは「高級な白米」とでも言うべきかもしれない。明確な「味」というものがないがゆえに、「いくらでもいける」のである。自分の手と紙とを媒介するのが筆記具という道具であるが、その存在感を限りなく透明に近づけた万年筆がモンブランだと言える。自分の身体の延長として、それを「使っている」という感覚さえ感じさせないという、道具の究極形がそこにあった。だから、書き味が心地良いから使う、という表現ではそぐわず、書き味が感じられないほどに書くという行為に没頭できる、という表現になるのである。そして、それほどまでに「無」であるにもかかわらず、その特徴のなさが面白みのなさになることはなく、むしろ書くという行為の楽しさを呼び続け、ずっと書いていたいと思える。(もちろん、最高峰として名高い「モンブランの万年筆」を持っているという所有欲が満たされる部分も大きい)

 

 面白いのが紙との相性で、どの万年筆を使っているときよりも、その紙特有の書き味を、モンブランは教えてくれる。紙そのものの書き味を、書き手に伝えてくれるのである。万年筆への追究がル・グラン購入で一段落したために、4月は複数の紙を追加購入して書き比べることになった。さらに、そんなふうにモンブランの万年筆ばかりを使っているわけにもいかず、これまでに購入した万年筆への愛情もきちんと注がねばと、結果的に書く量が増え続ける一方である。前回の記事で触れたノートは、現在トモエリバーのノートを2代目に決めて、万年筆に特化して書き続けているが、それだけでは飽き足らず、ロディアのメモパッドをもう少し日常的に使えないかとも画策しているところだったりする。もちろん、モンブラン以外にもまだまだ手にしてみたい万年筆はあるので、これが終着点ではない。弊害があるとすれば、手書きすることによる満足感が大きすぎて、逆にこうしてキーボードでブログの記事を書くことが面倒で億劫になる傾向があることぐらいだろうか。