下流

 構想は膨らみ続けるけれど、しかしいっこうに、その世界が現実なのかそうでないのかがわからなかった。確かなつながりを現実とは保っているものの、考えれば考えるほど、そこが閉ざされた空間に思えてならなかった。
 司書である彼も、言葉を飲み込んだ別の彼も、たたずんでいる彼女も、何かのはずみでそこから出られなくなってしまったかのようだった。


 遠い河口に立つ女性の後ろ姿を、司書の彼は見ていた。それがただ見ているだけなのか、見守っていることになるのかは、誰に決められることでもない。けれど、彼にとっては見ていることしかできないのも事実だった。
 声を持たない彼が、かけられる言葉はなかった。
 失ってからどれくらい経つのか、彼自身も覚えていなかった。伝えたいことを、伝えたい相手に、伝える機会を逸したときから、消失は始まったのかもしれなかった。今はそう考えることもできるけれど、所詮は後付けで、それを深く考えることに大きな意味もないように思えた。
 過去を振り返ったときに自分を締め付ける言葉の強固さに、恐ろしささえ感じるのだった。


 彼はまだ、目を離すことができずにいる。
 その遠くぼんやりとした後ろ姿に、いとおしい過去が映っているような気がしていた。錯覚かもしれない、幻影かもしれないとは思うものの、失った何かを取り戻せそうで、ただ立ち尽くしていた。


 言葉が流れていく。
 いつから自分がここにいるのかという問いは、禁じられていたはずだった。誰から禁じられていたのか、自分で禁じることに決めたのかすらわからなかったけれど、思えばすでに、書庫にはぎっしりと、言葉の断片が収まっている。


 彼女が振り返ったとき、何かがわかるような気がした。
 けれど、その瞬間、それをどんな顔をして迎え入れればいいのか、見当もつかなかった。振り向くことなく、そこから立ち去ることだって考えられた。
 せめて、と彼は思う。
 大丈夫、という一言が伝えられたら。
 それが何に対してなのか、傷ついた過去なのか、これから待つ未来なのか、ただ一瞬の現在なのかなんてどうだってよかった。あるいはほかならぬ、自分自身に伝えたいのかもしれなかった。


 そして、彼は気付いた。
 流れゆく言葉の中に、失われた自分の声があったことを。
 降りゆく雨の中に、微かな自分の叫びも混じっていることを。