日常に打った点と点をつないで

 2022年の1月24日から使い始めたA5の365デイズノート(STALOGY)が、そろそろ最後のページを迎えようとしている。昨年の1月27日の記事に、その書き始めのことを記したときに、「使い切ることを目標に」と掲げていた。実際のところ、1年と約1か月で、全ページを埋めてきたことになる。面白いのは、ノートを書き始めたときはボールペンの沼に入ったばかりの自分が、終盤では万年筆の沼に沈み切っているところであろう。自分自身で思い返しても、その変遷の早さに意味がよくわからない。

 ノートの使い方として、当初に掲げていたのは以下のルールだった。

 

 ・書き始めるときは必ず日付を書くこと。

 ・思ったことはなるべくそのまま、(箇条書きでなく)文の形で書き込むこと。

 ・同じような内容になってもいい、雑に書いてもいいから、毎日ノートに向き合う時間を作ること。

 ・その日あったことを書く日記としてではなく、(日記になってもいいが)これからのことを書くこと。

 ・ページが埋まらなくても、一つのテーマで書くことがなくなったら、次のページに行ってよい。

 ・読書メモや、ブログ記事の下書きにも使うこと。

 

 もともと厳密すぎるルールで自分を縛るつもりはなかったので、基本的には思ったことを自由に書く場として使いながら、休日の過ごし方や日々の買い物のメモに至るまで、雑多にいろいろなことを書き連ねてきた。いずれ読み返す記録のため、というよりは、その瞬間の自分の頭の中をすっきりさせたり、ただ万年筆で何かを書きたいという欲求を満たすためだったりした。仕事のこともプライベートのことも、特に分け隔てることなく、思ったことをそのつどなんとなく書き留めている。新しく万年筆やインクを買ったときは、その試筆にも使った。

 

 行き当たりばったりな使い方をただひたすらに続けてきた結果として、残そうと思っていなかった(その瞬間限りの思考だった)ものなのに、日常に打たれた小さな点が、緩やかな線になって自分の人生の軌跡を描いていることに気づかされた。曲がりなりにも、読み返せばそこに、約1年分の自分が見える。走り書きであっても、それはその日に自分が確かにそう考えたという痕跡として、ここに刻まれている。山頂から、登ってきた道を振り返るように、ノートの完結をもって、その感慨がじわじわと湧いてきた。

 

 もちろんこのノートは、万年筆で書くことを想定して買ったわけではない。しかしながら、裏抜けもなく書き味も悪くなくて、書かなくなる、ということにはならなかった(ただ、180度開くタイプではないので、ページとページの間が曲がるところが残念ではあったが)。

 

 日々の思考を残そうと思って1ページ目を書いても、まともにノートを使い切ったことがなかった自分が、360ページほどのノートを、1冊、しかも1年で使い切るなんて、と驚く。書くという習慣が、生活に根付いたことが喜ばしい。本当は、このノート以外のところでたくさん手書きをしていて、そのせいでノートへの手書きはむしろ減ってしまっているのだが、それでもこうして、何か思いついたことをそのままの形で書き込めるノートは、もはや生活に欠かせないものとなった。ただ漠然とものを考えてじっとしている時間が、漠然とノートに書き込む時間になった。答えや結論が出なくても、きれいな字でなくても、何月何日に何を考えていたかが、ただそこに残る。誰かに見せることは想定していないし、自分自身ですら、特に読み返そうとは思わない。けれど、ふと思い立って、未来の自分がそれを読み返したとき、そこには日々を確かに生きていた過去の自分がいて、その瞬間の自分と、思わぬ邂逅を果たすことになる。そして、惰性によって緩やかに変化を続けてきた現在の自分の生活を、不意に顧みることになるのかもしれない。よりよい人生を歩むためなどと、高尚な目標を掲げるつもりはさらさらないが、書いたことが生きたことを表すという事実が、少しだけ自分を強くしてくれるような、そんな気がしている。