『長城の風』に吹かれて

 写真に撮る、何度目の紅葉でしょうか。あなたがかざした一枚を、真っ赤な夕陽が照らしていた日のことを思い出します。遠ざかる日々のことは、振り返らずにいるとあっという間に見えなくなってしまい、ひとり途方に暮れています。すぐそばにあったものも朧気になるほどに、時間は奪ってしまうのですね。深まる秋の夜長にふと感じる孤独に重なるように、忘れていた温もりの記憶が甦ります。二度と触れられないその温かさだけはどういうわけか、今でもきちんと思い出せるような気がします。それも季節の移ろいのせいでしょうか。感傷的になってしまった自分に少し反省して、今目の前にある、一冊の本のことを書こうと思います。

 竹西寛子『長城の風』(新潮社)、すでに絶版になって久しい本です。

 

 梅が散る。
 山吹が吹く。
 稚児百合が待つ。
 海棠がふくらむ。
 椿が落ちる。 
 躑躅が追う。
 梅の葉、柿の葉が日毎に浅い緑の嵩を増す。
 今、草も木も大忙しです。お母さん、見えますか。
 
 ――竹西寛子『長城の風』 p.7

 

 冒頭、亡くなった母の十三回忌の折に、語り手の「私」は呼びかけます。
 目に見えるものを綴った潔い一文の連続に次いで、決して見えないものへと目を凝らす一文に、それだけで目頭が熱くなりました。季節の移り変わりと、周りの人たちの移り変わり、土地や環境の変化に伴う、心境の変化と、それでもなお変わらずにあり続ける思いと、後になって思い至る感謝と悔恨と。「私」の訪れた中国という土地の、自然や街並みや人々に感応して、過去への郷愁と現在への思索が混じり合います。


 厳しい自然を目の当たりにし、そしてそこに生きる人々の姿を目の当たりにして、生きるということの当たり前でなさを噛みしめながら踏み出す一歩の感触が、言葉を生み文章になっているのだと思いました。とりたてて不自由のない暮らしの中で本を読み、知識としての語彙を増やして満足している自分を思い知って、ひどく浅はかで、滑稽に思えてしまいます。言葉にならない思いを何とかして言葉にしようと心を砕いても、決してどんな言葉にも置き換えできないものの存在に気づくところから、表現は始まるのかもしれませんね。

 

 「よろこび」という一語。「かなしみ」という一語。どこに国にでもありそうなこの二つの言葉。しかしこの二つの言葉にも、国土の違いによる質の違いがある。規模の違いがある。日本語の「よろこび」は即ち中国語の「よろこび」であるか。中国語の「かなしみ」は、そのまま日本語の「かなしみ」であり得るか。五十歳を過ぎて私に訪れた予期せぬ厳粛なひとときは、松尾芭蕉の旅を、杜甫の旅に安直になぞらえるなとも教えてくれました。

 

 ――『長城の風』 p.34

 

 万里の長城に立って、そこを吹き抜ける風を受けたとき、「私」が感じ、綴った言葉です。このときの思いは作中に繰り返し思い起こされ、言葉というものについて考える起点のようにして、作品を支えています。

 

 異なる言語間での「よろこび」や「かなしみ」の差異をこれほどまでに実感するならば、きっと同じ日本語でさえも――それは私とあなたの日本語の間にも――わずかでも確かな差異があるのでしょう。ものに感じる心の形が違うように、持っている言葉の形も少しずつ違っていて、差し出された言葉の思わぬ鋭さや優しさに、一喜一憂するのが人間なのでしょう。

 

 表現をするということは、自分の思いを形にする以上に、他人の思いの形をなぞろうと心がけることが大切なのではないかと、どうしてもっと早く気づかなかったのでしょうか。美しい文章に感嘆しながらも、言葉を操ることに対して独りよがりな自分に、読みながら恥じてばかりでした。言葉で表現することも、詩を読むことも好きだった寡黙なあなたは、きっとそのことにも気づいていたのでしょうね。そして私に自分で気づいてほしいと思って、あえて言葉にしないでいたのではないかと、今ではそんなふうに邪推してしまいます。

 

 あなたの街では、紅葉はどんなふうに色づいていますか。今のあなたならどうやってそれを伝えてくれるのか、二度と確かめることができなくなってしまったこと、本当に残念でなりません。それでも「私」がそうしたように、私もこうして綴ることにしました。優しく吹いてくる秋風に乗って、もしかしたら届くかもしれないと信じて。

 

 ずいぶん冷え込んできました。調子に乗って、つい話しすぎてしまったようです。
 聴いてくださってありがとうございました。

 

 

【あとがき】
 往復書簡形式の物語は特別珍しいというものでもないけれど、手紙に綴ったような文体に宿る温度があまりにも美しく心地よくて、おこがましいと思いながらも真似してみたくて仕方がなくなってしまい、このような形の感想文になってしまった。文体の模写など久しぶりだったけれど、思えば小説を書き始めたばかりのころは、作品から刺激を受けるたび、真似しようとして書き続けていた。こんなふうに書きたい、と思えるような文章に出会えた幸せを噛みしめながら、筆を置きたい。
 ちなみに、感想を綴る書き手の私やあなた、そしてそこに付随する思いには、少なからず虚構が混じっています。その点をどうかご理解していただければと思います。