舞い上がり、飛翔する言の葉

 小説になしうることは何か。文章でできることは何か。言葉で組み上げられる芸術とは何か。そんなふうに小説の持つ役割や可能性を考えたとき、思い浮かんでくるいくつもの雲のような想像を吹き飛ばし、常識を転覆させ、波間に漂う心にうつくしい虚構の伽藍を打ち立てるほどの作品に出合った。


 多和田葉子[著] 『飛魂』(講談社文芸文庫


 古代の中国と思われる場所で、虎の道を究めるために、女虎使いである亀鏡の弟子となった「わたし」梨水が、森の奥深い寄宿学校で修行を積むという筋書きである。物語としてのあらすじは、多くの読者を引き付けるために魅力的であるほうがよいけれど、単に話の筋を楽しむためだけに小説が存在しているのでは決してないはずで、「飛魂」をはじめとした多和田さんの作品には、形式こそあれ、内容となるのは言葉(あるいは言語)そのものの視覚性である。


 登場人物は、梨水、亀鏡のほかに、煙花、紅石、粧娘、指姫、朝鈴、軟炭、緑光、桃灰、波草、婦台など。彼女たちの名に、ルビはない。あとがきで多和田さん自身が語っているが、それは漢字そのもののもつイメージを尊重し、字面を楽しむための意図的な試みである。アルファベットとは違う、表意文字である漢字に付与されたイメージが、人物名を目で追うたびに喚起されるその面白さが、想像上のスクリーンに映り込む。
 人物名だけでなく、異なる漢字を組み合わせた造語はいくつも作中に散りばめられている。そもそも題名の「飛魂」だってそうだ。そしてそんなふうにして書かれた言葉の群れはあまりに流麗でうつくしく、鮮烈に網膜に焼き付くように、読み手の記憶に刻まれる。


 ――闇に沈み始めた空に光柱が一本立ち、続けて雷塊が轟音を地に落とした。p.18


「光柱」も「雷塊」も、ありそうだが辞書にはない造語で、しかしその情景はあまりに視覚的に浮かんでくる。また、造語ではなくとも、多和田さんは比喩を用いて日常を覆う雲を切り裂き、天に飛翔するような文章を書く。


 ――わたしは、書を音読する時には、文字を知らない者の心で読んだ。そこに書かれている形をまず、風が落ち葉を吹き寄せて作り上げた形のように、偶然のものとして見つめた。それから、声を振動させ、その振動を魚をとらえる網のように広げた。記憶の彼方から何かが飛んでくる。酔いしれることのないように快感を抑圧し、逆に硬くならないように頬のあたりで少しだけ微笑し続けた。するといつの間にか、わたしの声はしなやかな魚網であることをやめて、剛鷹になり、茶色いぶちのある長い翼を広げて、講堂の天井に舞い上がり、円を描きながら頭上を飛行した。p.59


 こんな記述がずっと続く。言葉の、ではない、文字による芸術と言うのは言い過ぎだろうか。日常的に使う語彙の枠を歪め、知らず知らずのうちに凝り固まった日本語という言語の感覚を、地鳴りのように揺さぶり、まったく別の色彩で染め上げる。読み進めれば読み進めるほどそれは鮮やかで、これを革命的な読書体験と呼ばずして何と呼ぶべきだろう。それくらいに思う。


 ただ、難解だと指摘するひともいるのかもしれない。むしろ、そういうひとのほうが多いのかもしれないと思う。98年に書かれ、今回文芸文庫になるまで絶版だったことを考えると、そう判断せざるをえない。冒頭では、幻想的な森の中を想起させる記述から、枕元に現れる虎を待ち続ける人々について語られ、不可解なまま明確にならない概念が、次々に眼前を横切る。
 意味がわからない、という声があってもおかしくはない。
 だが、意味を求めようと考えることがすでに無意味であるのだと、文章からにじんでくるような気がする。どういう意味なのかと考える時点で、われわれは言葉とそれが持つ意味にとらわれてしまっている。書かれている言葉には、何らかの意味がなければならないという固定観念が、あまりに強い世界に、われわれは生きている。


 しかし、言葉とは、言語とは本来もっと自由なものであり、地についた両足をそのまま大地に溶かし込むこともできれば、両腕を翼に変えて飛び回ることもできるはずである。それをなしうる想像力によって、われわれは初めて言語を外から眺めることができるのではないだろうか。
 表現しうるものと、表現しえぬものの間で葛藤し、伝えようともがき、生きる。そんななかで、言葉は単に感情や意志を伝えるための道具ではないことを、多和田さんは語っているように思えてならない。
 豊富な語彙を身に付ける目的は、他人に自分の気持ちを伝え、自分が他人の気持ちを理解するためではない。無味乾燥で荒涼とした薄っぺらい実用性の皮を剥ぎ取れば、そこには現実より遥かに広大な、豊穣たる言語の大地が広がり、多様な意味が山脈となって連なっている。


 他言語との差異によって自覚するような、自らの言語観の認識を揺さぶられる経験を、日本語によって可能にした文学、それが多和田葉子さんの小説だと言えるだろう。日本語を日本語という一つの言語として見つめ、書き連ねられた言葉の星々を各々の想像力で結びながら、浮かび上がる星座を見上げるような、素敵という言葉では足りない読書体験だった。