目に見えない糸を思って

 真面目さ、誠実さを美徳と信じて生きているものの、そのせいで傷ついたり、悲しみをうまく受け流すことができないでいたりする。
 気にする必要のないこと、気にかけても仕方のないことに悩んだり、腹を立てたりしてしまうのは、自分の価値観を他人に押しつけてしまっているからなのかもしれず、反省する。反省はすれど、自分の力で如何ともしがたい物事に思い悩むことを、簡単に辞めることはできない。
 
 不意にその思考が、他人からの見られ方に及んだとき、面倒な重さを抱えた人間に見られ、敬遠されはしないかと怯えることがある。気をつけていても、無意識に行っていることが誰かに嫌な思いをさせている可能性もあって、些細なことでさえ、何かの引き金になっていないかと思い込む。最近は、大切にしたい人間関係ほどそんなふうに考えてしまう傾向にある、と気がついた。
 
 つながりを失った経験が、そしてそのきっかけが些細な物事の積み重ねによるものだったことが、関係性を断ち切られることへの恐れを生んでいる。
 仕事をしている日々の中で、仕事外で関わる人たちの存在というのは本当に貴重で、言葉を交わせるだけでものすごくありがたいことなのだけれど、関わろうとしなくても関わる仕事上の付き合いではない分、自分か相手が声をかけないかぎり、コミュニケーションは生まれない。だから、何もしないでいれば、その関係を互いに積極的に必要としないかぎり、関係は過去のものになり、やがて記憶とともに消えていく。
 
 生きることは、いくつもの関係性を結んでは解き、断ち切っては結び直したり、綻びを忘れてそのままになってしまったりしながら、手元にある結び目が緩んではいないか、あるいはきつく締めすぎていないかを確かめていくことなのだろう。
 
 ただ、紡いでいく糸の一方と他方には別の人間がいて、そこには結ぶ自由も解く自由も存在する。目に見えないつながりに心の置き所を求めるあまり、結び目を作ろうと躍起になったところで、現代における関係性は、目に見えない結び目でなく、線の名を冠したツールによってクラウド上の網の目の一部にしかならない。
 自分と誰かをつないでいるのは心もとなげな一本の線であり、その上に言葉を行き来させることで、かろうじてそれを目に見える形にしようと試みる。見えればそれは一時的な安心感を生むけれど、そんなつながりの可視化が招くのは、その関係そのものも、見えている間かぎりのものと思い込んでしまうことであり、見えなくなればそれは無いものと同じだと錯覚してしまうことである。
 
 目に見えない声と言葉のやりとりとは違って、目に見える言葉で返事がないこと(または返事をしないこと)が、関係性消滅の意思表示と紙一重になる。それは、普段定期的に顔を合わさない相手との人間関係において、いともたやすく実行できてしまう無言の終焉宣告である。か細い線のつながりはあっさりと絶たれ、そこには初めから何もなかったかのような無が訪れる。
 無が映し出すのは、その場にとどまり続ける自分自身の存在であり、人間の本質的な孤独そのものだろう。そういう思いに耐えかねて、誰かを、他者を求めてしまうのだと思う。
 
 こんなことを考え、書いてしまうから面倒に思われるのだろうか。
 深く考えないほうが幸せなのだと知ってしまっていても、思考の淵はそこかしこに広がっていて、何かの拍子にこうして呑み込まれる。自分の内側で処理しきれなかった淀んだ思いが、言葉になって溢れていく。
 
 さみしさは、埋めるのではなく紛らすものなのだろうか。消えていったもの、消えつつあるものに思いを巡らせながら、自分の力ではどうにもならない物事に向かって、祈りをささげるようにして締めくくるほかない。こうして綴ったものが、何になるのかはわからないし、何にもならないかもしれないけれど、それが孤独と対峙するための一縷になることを願って。