【小説】月面のフード

「月へ行ってみたいとは思いませんか」
 猫に話しかけられたのは生まれて初めてだった。
 塾の帰り、僕はコンビニの小さな駐車場で肉まんを食べようとしていた。周りに人はいない。僕が座ろうとした車止めの上に、美しいグレーの毛並みを持った、ロシアンブルーが座っているだけだ。野良猫かと思ったけれど、ロシアンブルーの野良猫なんているだろうか。よく見てみると、青い首輪をつけている。
 猫の先客は、唐突に口を開き、言う。
「人間の汚した世界より、ずっと住みやすいとは思いませんか」
 錯覚ではないし、空耳でもないらしい。目の前の猫が自分に向かって話している。口を開き、言葉を発している。その声は落ち着いていて、若い男性の声に近かった。
 僕は周囲を見回した。誰も歩いていないし、道路には車も走っていない。猫に話しかけられた人間を訝しげに見つめる人が一人でもいれば、僕の感覚は正しいことになる。さらに、この世界は夢ではないとわかる。そう思って周りを見たのに、誰も通りかからない。ロシアンブルーは、何もかもが当然のようにこちらを見ている。毛並みの色をそのまま映したグレーの瞳が、なぜ黙っているのかと問いかけているようだった。
 言葉を返すべきなのだろうか。状況がまず理解できないというのに、月へ行ってみたいとは思いませんか、と聞かれても答えられるはずがない。
「猫が話すのはおかしいですか?」
 ロシアンブルーは、黙って立ちすくむ僕にそう言って、軽く首を傾げた。
「いや」おかしすぎる、と僕は思ったけれど、言えなかった。
 その姿と声が、あまりに自然だったからだろうか。有り得ないことが起きているのを目の前にしながら、それを受け入れている自分がすでにいる。その瞳のせいかもしれない。夜の闇の中、コンビニの明かりを受けて光る瞳は、どこか優しく、それでいて神秘的だった。
 その瞳に吸い込まれるように、僕はロシアンブルーの隣に腰を下ろした。
「月面に立つのが私の夢でね」瞳を逸らすことなく、ロシアンブルーは言う。「本当に地球が青いのか、この目で確かめたいんですよ」
 ずいぶんスケールの大きなことを言う猫である。
地球は青かった、と言った人がいますよ」とりあえず、僕は彼に合わせて敬語で答えた。「月面から見た地球を見てそう言ったんですから、間違いないと思いますけど」
「でもそれは、何十年も昔の話でしょう?」そう言うと、ロシアンブルーは空を見上げた。
「そうですね」
 僕も彼と同じように空を仰ぐ。夜空には、彼の瞳とよく似た形をした、満月が浮かんでいた。小さな雲が、月の上側に薄くかかっている。灰色のフードをかぶっているようだった。
「まだ、地球は青いんですかね」
 月を見たまま、ロシアンブルーはつぶやいた。
「まだ?」地球は青くなくなるのだろうか。
地球は青かったと言われて以来、どれぐらい人間はその青を汚したでしょうか」嘆くように彼は言う。「少なくとも、かつての青ではなくなっているような気がするんです。たとえまだ青いままでも、確実に地球は青くなくなる。――あなたは、それが怖くはないですか」
 考えたこともないその問いに、僕は答えられなかった。ただ、人間よりも遥かに命の短い猫がそんなことを気にすることを、改めて不思議に思う。
「それって、今よりずっと先のことですよね。僕はきっと生きてはいないし、生きてもいない時代を想像することなんてできるわけないですよ」僕は素直に考えを言って、彼に問いかけてみた。「あなただって、そのころにはもう生きていないでしょう? 想像できますか?」
 ロシアンブルーはゆっくりと首を振った。「できませんよ」あっさりとそう言って、彼は僕を見る。凛とした声が、澄んだ夜の空気に溶けていく。
「だから私は、月へ行ってみたいんです。現状を知らなければ、何も想像はできないですからね」
「想像して、どうするんですか?」猫が一匹、現状を知ったところで、何かができるのだろうか。
「それだけです」彼は口角を上げた。微笑んだ、のだと思う。「それ以上は何もできませんから」
 あれ、と僕は拍子抜けした。肩透かしをくらったような気分で、ロシアンブルーが何を言おうとしているのかわからない。
「でも」そこでロシアンブルーは、急に真剣な目をして僕を見た。「それが月へ行った私にできる、精一杯のことですからね。たとえ何の意味も持たなくても、自分にできるすべてをやりきって一生を終えることができたら、それは幸せだと思いませんか?」
 僕は言葉を返せなかった。遠くでクラクションの音が響いた。ロシアンブルーの瞳は、エメラルドのような碧を湛えている。意味を持たない行為だとしても、それをやり遂げたいと願う彼の意志の強さがひしひしと伝わってきた。同時に、僕は自分の考えを恥じた。精一杯の努力のあとに生まれる結果を、目に見える形に求めたことを情けなく思う。達成感、充実感、満足感――何かをやり遂げるうえで、一番大切なことではないか。
 僕はうなずいた。「そうですね。それが最高の幸せだと思います」
 もう一度僕は空を見上げる。満月は、それを囲むように瞬く星とともに、ほんのりと光を放っていた。優しく何かを語ろうとしているようにも見える。
 しばらく沈黙が続き、再びロシアンブルーが口を開いた。
「うさぎに生まれたかったなと、ときどき思うんです」満月を見上げ、彼は目を細める。
「白い身体のほうが良かったんですか?」違うとわかっていながら、あえて僕は尋ねた。
「うさぎに生まれれば、あそこで餅をついていられたかもしれない」
「地球を、ずっと見ていられる場所ですよね」
 ぼんやりとくすむクレーターの影は、今日も身体を曲げたうさぎに見えた。
「まあ、白い身体や長い耳も、少しうらやましいですけどね」ロシアンブルーは微笑んだ。
 そのとき僕は、話に夢中になっていたせいで、手に持っていた肉まんが冷めていることに気がついた。
「肉まん、食べますか?」一口かじると、中はまだ少し温かかった。言ってから、猫は肉まんを食べるだろうか、と思う。
「よろしいんですか?」
「ええ。少し冷めてますけど」僕は肉まんを三分の一ほどちぎって差し出した。
「ありがとうございます」
 お辞儀をするように彼は一瞬目を閉じ、僕のほうへ近づいて、肉まんをくわえてまた車止めの上に戻った。
 食べるのに夢中になっている姿は、やはり猫そのものだった。さっきまでの落ち着いた口調と、その愛らしさの落差が面白くて、僕は思わず微笑んでしまう。
「肉まんは、食べたことあります?」
 食べ終わったロシアンブルーに、僕は尋ねた。
 彼は舌で優雅に口の周りを拭って、落ち着いた口調で答える。「いえ、初めてでした。安物のキャットフードよりは、ずっとおいしいですね」
 その言葉を聞いて、僕は今さら、彼が飼い猫であることを思い出す。彼の青い首輪をよく見ると、真ん中に宝石のようなものがあった。
「あの、帰らなくていいんですか?」おそるおそる、僕は聞いてみた。
 ロシアンブルーは、小さくため息をついた。
「帰っても、何も楽しいことなんてありませんよ」
「どうしてですか?」
「心配されていることもないでしょうし、うちの主人にとって、私はただの猫でしかない。飼い猫ですらない、ただの猫です」
「食事がもらえないとか?」
「いえ。うちにいれば、決まった時間に食事は出てきます。でも、それだけです。それ以外、主人は私に見向きもしなければ、話しかけることもない。高い首輪を付け、食事だけ出せば飼っていることになる、と主人は思っているんでしょう。いなくなっても、どうせまた戻ってくるだろうと思うんでしょうね」ロシアンブルーは、辟易したように言った。
「もしかして、帰らないつもりですか?」
「私は、毎晩窓から月を見ていました。いつかあそこに、月面に立つことができれば、と思いながら」決意に満ちた表情で、彼は満月を見ていた。「私は、死ぬまでに必ずあの場所へ行きます。不可能ではないはずでしょう?」
 静かでありながら力強い声で、ロシアンブルーは自分の思いをなぞるように言う。できるわけない、と思ったけれど、真剣な顔のままこちらを向くロシアンブルーを、否定することなんてできなかった。
「可能性は、ごくわずかですけど、あるんじゃないでしょうか」僕は、ロケットに乗った犬がいたことを思い出し、そう言った。
「世の中に、絶対はない。私はそう信じています」
 そう言うと、ロシアンブルーは優しく微笑んだ。今度は、間違いなく微笑んだとわかった。温かいその瞳は、冷たい夜空にぼんやり光る満月を思わせる。
「では、そろそろ行きますね。肉まん、ありがとうございました」
「いえいえ。それより、頑張ってください。僕も、自分にできる精一杯のことをやるつもりです」志望大合格なんて、月に立つよりずっと簡単だよな、と僕は思う。
「いつか」車止めからふわりと地面に跳んで、ロシアンブルーは言った。「空に浮かぶ満月の影が猫になったら、それは多分私です」
 そして、僕が言葉を返すより早く、彼は夜の闇へ駆け出した。雲が月に作る影にも似たグレーの身体は、すぐに見えなくなった。彼のしなやかな足が、いつの日か月面を踏みしめることを、僕は心から願う。


(2006年5月27日完成 2013年12月11日修正 11枚)