「見る」ということ――竹西寛子さんの文章に触れて

 竹西寛子さんの文章はつねに、何かを書くという行為を振り返るきっかけになる。それは、仕事に急き立てられて物事をじっくり考える時間の取れない自分を静かに戒めてくれるようで、乾いていた土壌に雨水がしみ込んでいくように、足りなかったものが満たされていく感覚になるのだった。
 
 評論・随想集『「あはれ」から「もののあはれ」へ」』(岩波書店)において、竹西さん自身が評論と小説という表現方法を往来するなかで感じられたことが綴られている箇所がある。
 
 感動の理由を問い、具体的事物を分析帰納し、抽象化して結実させる評論から出発したことで、感動の具体性を分散拡大し、結論を読者に委ねる小説を書くことへの心もとなさにつきまとわれる。そのような不安を抱えて小説を書くなかで、具体的な経験を分散拡大し強調する際に、いかに事物を「杜撰にではなく『見る』」かが重要かと実感させられる。その実感が自身の評論にも向けられ、物事を抽象化し、概念的に記述することには、日常において「見る」ことへの怠慢を許しやすい側面があることに気づく。そして、事物を分析帰納して抽象化する評論であっても、「見る」ことをおろそかにせず、テキストに謙虚に向き合い、具体的かつ平明な文章を心がけることで、客観的で普遍的な論述が可能のはずだ、と思うようになる――。
 
 「『見る』に始まる」という6ページ分の、これは要約だけれど、そんなふうに、評論から出発し、小説を経由して改めて評論に戻るかたちで、具体的事物を「杜撰にではなく『見る』」ことの大切さが語られている一節があった。
 それは今の自分にとって、深い霧の向こうに一筋の灯りを見つけたような心持ちになる文章だった。
 小説を書く時間が少なくなり、読む文章の種類にも変化があって、それでいて書くよりも読むほうにばかり時間を割く日々が続いている。それも、小説ではなく評論が多く、評論から小説へと足を延ばした竹西さんとは対照的に、小説から出発して評論へとたどり着いた自分にとって、具体的事物の分散拡大に伴う困難さは、まさに今現在直面していた問題だった。
 
 抽象概念を扱い、理路整然たる文章を読んだり構築したりする面白さは、複雑な建物が実は単純な構造に支えられていることに気づくようなところがある。構造が見えれば全体の外観は違って見える。柱の一本一本の必然性に気づき、屋根の対称の美しさに息を呑むように、計算された形に備わる機能の美を思い知る。その面白さを継続的に味わうことで、自分が文章を書くときにも、個々の具体的事物からいかにして共通する要素を抽出して一般化するかに心を砕こうとする意識が出てきていた。その分析帰納への意識は、評論においてこそ持つべきであり、小説や随想を綴るにあたっては、分散拡大すべき経験の具体性をないがしろにしてしまいかねないものである。ましてや竹西さんの言葉通り、評論においても具体的事物への眼差しが不可欠なのだから、それに気づかずに文章を書こうとしていた自分が、うまく書けない思いを抱くのも当然だと言える。考えるべきは全体の構造をどのように組み立てるかではなく、建造物の全体をつくる一つひとつの石や木の材質や手触りに心を配ることだったのである。
 評論ではない何かを書こうと思い立つのに、筆が進まず自分の眼が曇っているような感じを抱いていたことについて、竹西さんの文章によって明確な理由を与えていただいた、そんな気がしている。「事物に対する目の怠慢」、本当にその通りだと思った。
 
 そうやって文章を書くときに不可欠な「見る」という行為を研ぎ澄ませて行うのが、写真を撮るという行為である。文章を読み、書くだけでなく、風景を撮るという行為もそれなりに試みてきたはずなのに、なんとなく自分が、眼前の景色ではなくファインダーの中だけを見ていたような、そんな気さえしてくる。目の前に存在する事物に心を動かされてカメラを構えるのに、一心に見つめるのはファインダーの中に映し出されるモニターの画像に過ぎなくて、出来上がった写真を見て満足はするものの、それが自分の「見る」力を磨くことに何ら寄与していないような気にもなって猛省する。そこには、どれだけ言葉を尽くして文章を書き上げても、圧倒的な一枚の写真の前には敗北せざるをえないという、写真に対する畏敬と羨望の念があったことも事実ではある。
 どのような画角で、どのような設定で、どこからどうやって撮ればそんな一枚が撮れるのか、技術面の試行錯誤はもちろん大切で、そのこだわりが自分の思い描いたものの表現につながるのは間違いないけれど、決してそれがすべてではない。文章も同様である。いかに書くかを支えるのは、いかに「見る」かなのだ。「抽象に逃げるな、と自分を叱り続けて小説を書いていると、日頃いかに物の見方が杜撰であるかがよく分る」と竹西さんが語るように、きちんと事物に対峙すること、そしてそれをするための心のゆとりを忘れないでいたいと思う。
 
 評論ではない文章を書くことは、具体的事物から得られた感動をきちんと自分のなかで咀嚼し、消化したのちに、持っている言葉による選択と再構成を行って分析帰納、そして一般化し、さらにそれを具象の形に戻して表現するという作業である。その具体と抽象の往復を、たどたどしくも粘り強く行い続けること。それを怠らないようにしなければと思うのは、自分のなかに小説や随想の形で何かを表現したいという欲求が根強く残っているからにほかならない。具体的な経験に根差した想像力が、言葉を伴うことで一つの世界を切り拓く――そんな文章表現の魅力を、享受するだけでなく創造、発信したいのだと、傲慢ながらも思ってしまう自分が、小説を書くことから遠ざかってもなお、確かに存在している。
 
 久しぶりに触れた竹西寛子さんの文章が、予想の範疇を超えて眩しく、自分の進む先を照らしてくれたような気がしている。未読の作品も多く、これからもずっと、折に触れて読んでは自分の糧になっていくだろうと思う。自分が書いたものも、誰かの何かを照らすものでありたい。そのためには、たくさん読んでたくさん書くほかはなく、「杜撰にではなく『見る』」力をつけること、それに尽きるのだろう。物事を見つめ、逡巡する時間を、表現の土壌を豊かにする時間と捉えながら、読むこと、書くことに向き合っていけたらと思った。