新しい季節を思うこと

 ずいぶん早く咲き始めて散っていった桜を回想しながら、梅雨明けを待っている。夏の足音が聞こえてくるのも心なしか早く、こうして時が経つ早さを身に染みて感じられるのは、30歳を迎えてしまったせいなのかもしれないと思い、少し複雑な気持ちになる。
 とはいえ、こうして節目を迎える年に、無事に異動できたことはうれしく、4月からこれまで、何度心の中で順調という言葉を繰り返したかわからない。
 考えてみれば、二十代後半の5年間はずっと前の部署にいたわけで、よくもまあそんなに長く続けられたものだと今では思う。過去を否定するつもりはないし、過去の自分が現在の順調さを築いてくれているのは間違いないけれど、あのころあれだけ頑張れたのだから、という論法は使わずにいたい。平穏な現在が浮き彫りにしたのは、限界を超えて確かに無理をしていたという事実で、それをこれからの自分にも、関わり合う誰かにも決して強いたくはない。のしかかる負担は必ずしもひとを強くするのではなく、圧迫された心は優しさを持つゆとりを生まない。
 新しく勤めている場所までは自宅から約1時間かかるけれど、多少面倒な乗り換えにはもう慣れた。呼吸のしやすい場所が線路の先にあることをよろこびながら、大半は読書にいそしんでいる。読書をする心の余裕が戻ってきている。


 環境が変わったせいなのか、30歳を迎えたせいなのか、長く使ったものを買い替えたいと思うことが増えている。6年間かけていた眼鏡を先日買い替えたことをきっかけに、働き始めてから一度も買い替えたことがないもののことをたびたび考えるようになった。
 テレビ、電子レンジ、洗濯機、掃除機、シェーバー、財布、パスケース、腕時計――など、別に壊れていないのだから買い替える必要もないのだが、ふと何かに飽きたような気持ちになる瞬間があり、最新のもののスペックや値段を突然調べたりしている。眼鏡を替えたせいで、それまで見えなかった何かが見えてしまっているのかもしれない。あるいは、忙しくて周りを眺める余裕がなかっただけだとも考えられる。ただ、その思いは徐々に加速し、家にあるものだけでなく、自宅についてさえ、そろそろ引っ越してもよいのではないかと考えることもあり、新しさを求める何かに突き動かされている気がして少し戸惑う。


 ずっと前に、ひとは筆箱をいつ買い替えるのだろう、と思ったことがある(筆箱のことはここでも過去に書いた)。壊れることがなければ使い続けるのに支障はないものを、ひとは何をきっかけに、どういう理由で買い替えるのか、ときどきすごく気になることがある。たとえばそれを誰かに訊ねたとして、「特に理由はないけど、なんとなく」という答えが返ってきても、その「なんとなく」の向こうにある潜在的な何かを知りたくなるし、見極めたいと思ってしまう。そこには、言語化以前の何か本質的なそのひとらしさがあるように思えて面白く、できるならそれを言葉にしてみたいとすら考える。無意識で、どうにもできない部分には、そのひとの人間的な部分が垣間見える。わけもなく、ああ、このひとも人間なんだと思ったりする。その安心感が心地よく、精神的な距離感を縮めるきっかけになることがある。完璧な人間は存在せず、不完全さこそそのひとの本質で、どうにもならないその部分に、そのひとがどう向き合ってきたかを知ることが、心の共有なのかもしれない。
 そんなことを考えているにもかかわらず、なるべく自分はひとに隙を見せたくないと思っていて、たやすく矛盾が表面化する。大切にしたい過去を握りしめていても、新しいものが欲しくなる瞬間はやってくる。


 今年の夏が暑くても暑くなくても、新しい季節には写真を撮りにいきたい。ただ、カメラやレンズを買い替えたい思いが首をもたげても、それについてはなるべく考えないようにしようと思っている。精神的な充実が、経済的な破綻を招いてはいけない、と戒めを込めてここに綴っておく。