ほかならぬ誰かになるために

 川上弘美『某』(幻冬舎文庫

 

 二日間でほぼ一息に読んでしまった久しぶりの川上弘美さんの小説の感想を、読了の勢いのまま綴っておきたくて書いている。

 

 この小説においてまず、人は、あるいは自分は「何者なのか」ではなく「誰なのか」という問いが立てられる。
 名前と性別と年齢といった諸々の個人情報を削ぎ落されたとき、残るその人間はいったい誰なのか。この小説は、そんな「誰でもない者」を語り手にした物語である。

 

 「何者なのか」と「誰なのか」、この二つの問いは似ているようでまったく種類の異なるものだ。知人を紹介されるときに開示される情報はふつう、前者であり、実体を持って名乗る以上は、後者について訊ねる意味も必要もない。でもそれは、吹けば飛ぶような立場や肩書や属性という装いによって、「何者かであるような」気になって一応納得しているだけで、人間が人間として生きるうえで、自分が「誰なのか」という問いは、つねに答えを与えられないままそこにある。あり続ける。

 

 誰でもない者である語り手は、「誰か」に変化して人間の生活を送る。そして一定期間が過ぎると、別の「誰か」に変化して、新たな生活を送る。過去の「誰か」の記憶は引き継がれるけれど、誰の人生をどう生きても、「彼(あるいは彼女)」は誰でもない者である。

 

 人は誰もが誰でもない者なのかもしれないし、誰でもない者だから、誰かでいようと生きるのかもしれない。
 逆に、自分が誰でもない者であれば、もっと自由に生きられるのではないか、とそんなことも思わされる。誰かであるということが、ときにどうしようもない枷になる。たったひとりの誰かであることしかできないことは、ときに生きることのつらさにもなる。
 
 誰かであることと、誰でもない者であることの生き難さは、結局のところ大して変わらないのかもしれない、と思わされる。
 ほかならぬ自分が抱く苦しみやさみしさの正体に、自分自身の誰でもなさというのがあるのだろうか。仕事をしている自分が、立場や肩書や知識によって築き上げられた「誰か」でしかなくて、本来の自分からは遠いもののようで、それを無理やり本来の自分であるように言い聞かせて生きている、そんな気がしてくる。だから、ひとりになると、立場や肩書から離れて、誰でもない自分が現れる。名前があって、遠くに家族もいるけれど、何者でもない自分の存在を直視すると、生き続けることも死んでしまうことも怖くてさみしいものに感じられる。

 

 立場や肩書のない自分に形を与えられるのは他者の承認と肯定で、それを欲するがゆえに、もがくようにして生きる。あるいは「他者への犠牲を払う」ことで、自分は自分になる。してもしなくてもいいはずのことを、あえて選択するという純粋さのなかに、アイデンティティを賭けるという仕方で。

 

 「あなたが誰であってもいい」というのは無責任の表明で「あなたがあなたであるがゆえに」というのが最大の承認になる。けれど、誰かに向かってそう言うためには、あるいはそう言われるためには、相応の確かなものがなければならない。その根拠とは何なのだろう。

 

 そんなものはなくて、幻であったとしても、何かをそれと決めて、足場にするしかないのかもしれない。この小説ではそれが「愛」と呼ばれるものである。正体不明で曖昧なのに、人間と人間の間に、確かに芽吹き、花開くもの。誰かとまったく同じかなしみやさみしさは経験できないけれど、自分の感じるものに共感を得られたとき、よるべのない気持ちに居場所が与えられたような気持ちになる。わかる、わかってもらえる、その感覚そのものが幻でしかないとしても、そう感じた事実には、確かな何かを託してもいいのではないか。

 

 ずっと自己に向き続けてきた眼差しが他者に向き、注がれるとき、鏡のように自己が自己としてそこに映る。相手の瞳の中に映る自分の姿を見るような瞬間が訪れる。きらきらとした光を湛えるそれを見つめながら、生きるということの真実に、そこでようやく触れられるのだろう。

 

 


 物語の核心には触れず、なんとなく思ったことを抽象的に綴ったら、あまり面白みのない感想文になってしまった。

 小説を読みながら、自己と他者という抽象概念の形ではなく、今ここに生きている自分のことを考えていた。生活を営むことができているのは、自分が社会的な何者かであるからにほかならないけれど、それらを抜きにして自分を見てくれる人間はいるのだろうか。あるいは自分は他人を、ほかならぬその人として見つめる目を持っているだろうか。誰かに対して、気になる、もっと知りたい、と思うとき、いったい自分は何を知りたがっているのだろう。「どんな人なのか」をわかるためには、何を理解すればいいのだろう。逆に、何をどう表現すれば、自分が「誰なのか」がわかってもらえるのだろう。

 

 そういうことを、『某』を読む前からずっと考え続けている。本を読んだり、感想を話したりしたいのは、読書の経験を言葉にすることが、その人のその人らしさを知る手立てになりうると信じているところがあるからだと思う。何を面白いと思い、何に喜びを感じ、何を悲しいと思うのか、それが重なり合う部分を祝福しながら、重ならないところを肯定していくことで、確かな関係が少しずつ結ばれていくのではないか。読んだ本について語ることは、その端緒となりうる貴重な時間なのだと思っている(もちろん読書をしない人もいるし、本を語る以外の方法もたくさんある)。

 

 ここからさらに進んで、人が人と生きるということはどういうことなのだろう、と考えてもいるのだけれど、長くなってしまったので、今回はここでとどめておきたい。