夜の間でさえ 季節は変わって行く

 小説を書いた頃の自分を思い返している。作家になること、小説を書いて生きていくことを志している自分の姿が、気づけば遠い。
「もう書かない」あるいは「もう書けない」と断言するつもりはないけれど、表現したいものを表現するのに、必ずしも小説という形を取らなくてもよいのではないかという気持ちが今は強いのかもしれない。
 と、ここまで書いてはみたものの、漠然とした「書きたいもの」がないわけではない。

 

 それは、物語の形をとることなく、抽象的な感覚として、自分のなかにずっとあり続けている。

 

 大っぴらに誰かに話したことはないのだけれど、My Little Loverの楽曲「Hello, Again ~昔からある場所~」が好きだ。
 言わずと知れた名曲ではあるけれど、リアルタイムで好きになったわけではない。
 あの曲を聴いたときに感じる雰囲気――「きらきらした過去への感傷」のようなもの――を表現することが、たぶん、今も昔も自分の思う表現の理想像なのだと思っている。

 

 現在を生きている自分の内側から、忘れていたはずの思い出がとめどなく溢れてくる感覚。
 二度と実感することはないと思っていたのに、確かにその記憶が自分のなかにまだ残っていたのだという感慨。
 個別で具体的な記憶がその曲と結びついているわけではないのに感じられる、対象のない懐かしさ。
 
 ときどき聴きたくなって聴き直すたびに、この感覚は何なのだろう、とずっと思い続けている(一人ひとりが抱えている具体的な思い出が、作品として結晶化した途端に普遍的な懐かしさを帯びて響いてくるのが、名曲たるゆえんなのかもしれない、と思う)。

 

 もう二度と戻らない何かを恋しく思い、それが手元にあったときの感覚を呼び起こし、けれどすぐさま消えていき、もう一度名残を惜しむ。何もない掌を見つめ、何もないことを認めたくなくて目を閉じ、遠ざかる思い出に手を伸ばす。それは一種の祈りのようでもある。迫りくる未来の手から逃れ、流れ続ける現在の時間から意識を隔離させる、救いのような何かを求める祈りである。

 

 優れた作品は、そんな祈りのようなものを、鑑賞者に促すような気がする。小説でも、音楽でも、写真でも、映画でも。
 祈りに呼応して現れるのは、かつて自分のなかに存在した実感の手触りであり、その心地よさが、たとえ一瞬であったとしても、現在を生きる自分を救ってくれるような気がしている。

 

 人々を未来へ押し流す時間から隔てられる、わずかな時間。消費されるコンテンツとは一線を画す、現在の充足がそこに生まれるような、そんな何かを創り出せるような作品を、文章で、あるいは写真で、表現してみたい(ここに、「あるいは写真で」という言葉を足せることが、今の自分をかろうじて支えている)。

 

 伝わるのかどうかわからないけれど、書いて残すことが、何かを生み出すことを信じて。