痛みの道標

 夜、不意に訪れるのは、音信不通になってしまったひとや関係が絶たれてしまったひとの記憶で、相手が生きているのか死んでいるのかもわからないことを思って、身体の内側を静かに刺すような痛みを覚える。こちらがどうしようともつながりを保つことのできない、縁というもののままならなさによる痛み。傷口も流血もない痛みをそっと抱えながら、見えないその傷跡の数が増えていくことについて、「さよならだけが人生だ」と井伏鱒二の言葉を思い出す。

 

 何の前触れもない関係の断絶や、二度とない「また連絡します」などを思い返すたび、あれは何だったのだろうと考える。緩やかなフェードアウトではない別離も幾たびか経験して、誠実に誰かを求めることも、気を紛らわせて孤独を見ないふりするのも、どちらも疲れてしまったな、とため息をつく。

 

 もっと自分から行動を、と動き続ければ続けるほど傷は増えていく。傷が増えたぶんだけ優しくなれたらと願いながら、差し出す言葉は受け取られずに、善悪も好悪も、肯定も否定もないまま消えていく。

 

 思い悩んで言葉にするのもそれは束の間のことで、日常の大半は多忙な仕事の渦に呑み込まれて沈むだけで、仕事をしていない瞬間の一個人の感情など些細なことに過ぎないと言い聞かせる。仕事が楽しく、充実していることだけが救いで、大変であってもそこには他者からの承認と存在肯定がある。認めてもらい、頼りにされていることに、報いたいと思う。そうやってまた、消え去ったわけでもない痛みを見ないふりし続ける。


 かつて「忙しい生活の中で身を削って暮らすあなたは女性を守れるとでも思うの?」と言われたことが、ずっとずっと心に刺さっている。
 待っている多くのひとのために自分の身を削ることで、幸せにしたい人間を不幸にした事実が、消せない傷痕として残っている。それが消えないのは、自分も相手を傷つけてしまった罰であり、忘れてはいけない言葉として、刺さったままやがて痛みがなくなるまで溶け込んで、自分の一部になるほかないからかもしれないとも思う。

 

 あれからずいぶん時間が経って、それでも自分は今なお仕事のために身を削っていて、たくさんの人たちの期待に応えるために必死になって生きている。それはたぶん誇るべきことなのに、不意にその言葉を思い出して、結局自分には誰も守れないのではないか、自分のことで精一杯なまま、一生を終えていくのではないかという思いにとらわれる。この生活を辞めない限り、仕事上の存在意義を捨てない限り、自分が幸せにしたいと思う人間を幸せにできないのかもしれないという強迫観念。現状、実際にそんな相手がいないのも、自分があのときから変わっていないからではないかという焦り。

 

 刺さったままのその言葉にきちんと答えるには、今年取り組んだことを来年もっと楽にできるように、今より少しでも余裕を持って生活できるように、今できることに全身全霊を尽くすことだけだと思っている。

 

 思い出す頻度は減っても、気持ちの底ではずっと、悔しくてたまらない。だから、仕事のうえで目に見える結果をきちんと出すことで、自分の生き方に納得できるようにしたい。二度と誰かにそんな言葉を言わせないようにしたい。そして、仕事だけに一生懸命になるのではなく、自分が自分であるための習慣をきちんと続けていくこと。それはたとえば好きな本に向き合って感想を発信することだったり、写真を撮りに行ったりすることだったり――人生をかけて信じ続けてきたものまで、崩してしまうことがないように。

 

 虚栄心や強がりで見栄を張るのではなく、ただ恰好よく、素敵でありたい。
 痛みや苦しみではなく悦びや楽しさで、ひとを惹きつけられる人間でありたい。
 欲しいのは慰めや憐れみではないし、示したいのは弱さや寂しさでもない。
 
 長い長い時間考えて、ずっとずっと悩み続けて、似たような文章を何度も書いて、思考が沈み込んだまま終わらないような締めくくりを、ようやく言葉にできそうな気がしている。こちらから近づけば遠ざかっていく関係も、互いに歩み寄ったはずが勘違いにすぎなかった出来事も、ないがしろにされた信頼も、今さらなかったことになどできないし、忘れ去っても事実は消えない。そしてこの先も、似たような出来事が起こらないとは限らない。


 選択と判断を行った自分に情けなさを覚えても、理不尽な思いに嘆きたくなっても、それらを受け入れる覚悟を初めからしておくこと。負の感情や承認欲求に呑み込まれそうになったとき、ここが立ち返る場所になるように。

 

 こうして綴ることも所詮は単なる自己正当化の試みでしかないのかもしれないけれど、自信を失って、誰かのために何かできるだけの余裕がない自分にはなりたくない。自分のような思いをしている誰かに、いつかどこかで寄り添うことができるように。

 

 痛みによって生まれた言葉を積み上げて、一つの道標としてここに建てておく。引き返すことのできない道だけが続いている。