拍節に耳を傾けること

 明けましておめでとうございます。
 2021年は、仕事や読書の面ではおおむね頑張って、それに伴う結果も得られたと思っています。それ以外がなかなか思うようにいかず、精神的にきつい状況もありました。抱え込むほかどうしようもないものをどうにかできるように、2022年も粛々と読むこと書くことを続けながら、心身ともに健やかに生きていけたらと考えています。

 読んでくださる方々が少しずつ増えてきているのが、本当に嬉しいです。救いであり、支えです。ありがとうございます。どうか今年もよろしくお願いいたします。

 

 2022年最初の読了は、山崎正和さんでした。

 山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社

 

 冒頭、敬体で綴り始めたので、引き続き感想もこのまま綴ります。
 思い起こせば昨年も、1月に氏の文章を2冊読んでおり、特に評論『社交する人間』は見事でした。断片的にその著作には触れていながらも、通読に至っているものが少ないのですが、『リズムの哲学ノート』は、とりわけ身近な事象から出発しているため入りやすく、年末から読み始めたこともあって、必ず三が日で読み終えようと決意して、こうして間に合った次第です。

 

 本書は、人間の存在のみならず、自然も含めた森羅万象に至るまでを貫いている、リズム(拍節)について書かれたものです。自然における季節の移ろいや月の満ち欠けに、生物の生と死。それらに共通するのは、「鹿おどし」に見られる「水の蓄積→堰き止め(抵抗)→水受けが跳ねる」という構造です。一言で言ってしまえば、この本では、この「鹿おどし」構造に従って、哲学史上で長きにわたって対立していた主観・客観や主体・対象という二項対立を超えていく試みがなされています。

 

 たとえば先述した「決意」という言葉は、「意を決する」と書きますが、このように主体である人間が、自己の意志を自ら能動的に決めるというのは本来ありえず、人間を取り巻く周囲の環境によって、意識はあくまで受動的に反応するもの(目覚めるもの)であって、その反応は何よりもまず身体に顕現します。ある一定の経験の蓄積が閾値を超えることによって意識は覚醒し、身体はそれに「運ばれる」(だから本当は「決意させられる」し、やる気に「なる」)。

 すべてはそのようなあり方をしているのだと、様々な具体例を挙げながら論理が展開していくさまがあまりにも美しく、その相似形をなぞるうち、知の螺旋階段を上っているような心地になりました。

 

 小説も評論も、優れた著作は日常的なものの見方を改める契機となりえますが、山崎正和氏の著作はつねに、常識から出発して丁寧に論理を積み上げ、日常の思い込みを転回させてくれるものと言えます。美しい論理構造をたどって文章を読み進める経験は、書くことや考えることにも良い影響をもたらしうると思います。

 

 多忙な折、物事を、時間をかけて考えるという経験が少なくなりがちですが、人間の本来的なあり方に思いを馳せ、他者との交流や、自然のリズムのなかで「生かされている」自己について、見つめ直す時間を大切にしていきたいと実感しました(明日から仕事初め、この言葉を自戒のようにしながら、感想を締めくくりたいと思います)。