磨り減った革靴が踏みしめた道は

 明日は内々定をいただいた企業に、意志確認の面談に行く日である。確認されるまでもなく、電話越しに入社の意志を明白に示してしまっているし、選考はすべて終わっているのだから気を楽にしていけばいいのだけれど、やっぱりいろいろと思い出して、変に緊張感が込み上げてきている。
 だから、今改めて、決まったからこそ言える、就職活動中には書けなかったことを書こうと思う。抽象的なことも、少しは具体的にしながら。


 就職する、すなわち、民間の企業で働く、ということを決断するとき、真っ先に考えなければならなかったのは、作家になりたいという自分の夢をどうするかということだった。無論、小説を書くことをやめる気はさらさらなく、これまでもこうして日記を書き続けている通り、何らかのかたちで文章を書くことは、現実的に言って生活に根差していて、大げさに言えばもはや生きることそのものになっている。
 そんななかで、ものを書くことをやめないなら、仕事をどういう位置づけで考えるべきなのか。これは4月下旬の日記にも、考えた跡が残っている。
 約半年前の4月23日の日記で、小説を書くことと同率首位になるような生きがいを、仕事に見い出してもいいのではないかと考え始めた、という主旨のことを書いた。
 そのときは、まだその実践として、どういう仕事ならそれができるのかが全然はっきりしていなかった。それを明らかにするための迷走が、そこから始まったと言っていい。


 メーカーや広告の営業職からSEへと範囲を広げ、どんな仕事なら自分はやりがいを感じ、楽しみながら、成長につなげていけるだろうかと考えた。
 けれど、小説を書くことと同率首位になるものを見つけることは、小説を書くよろこびとはまったく違う、新しい世界を探すことでもあり、それは結果として、小説から遠ざかることになってしまって、しっくりこなかった。
 それが、いろいろと回った末にいちばん行きたいと思ったSE募集の企業の二次面接に落ちた9月の下旬になってようやくわかった。その落ち方が当時の思い入れとは裏腹に、あまりにもあっさりだったので、目が覚めた。違うと思った。


 そもそも。ふと考えてみた。小説を書くことで僕自身は世の中に対してどうしていきたいのか。それはとりあえずのところ明らかで、主立ったもので言えば、自分の言葉で現代を生きているひとの人生に、何かプラスの影響を与えること、だった。
 ならば、仕事をすることで(つまり企業という集団に属することによって)自分がそれを実践する方法には一体どんなものが考えられるか、と思いを巡らせた。


 それが、このたび就職先となった企業で、子どもたちに国語を教える、という方法だった。まだどういうかたちで、どれくらいの年齢を相手にするのかわからないので、あえてはっきり言わないが、つまりは志望校に進学したいひとの成績を伸ばすきっかけを与える仕事である。
 そして広く言うなら、教育。これからの時代を担うひとたちのために、彼ら一人ひとりの生き方を、一緒に考えていく仕事である。
 もっと言えば、言葉を通じて、あるいは言葉を超えた方法で、人間を相手に、気持ちのぶつけ合いに身を投じる仕事である。
 人生経験、人間としての度量、人格そのものが試される仕事である。


 最初にこの仕事を選択肢として考えるとき、当然ながらためらう部分が大きかった。責任の大きさはもちろんのこと、勤務時間や労働形態が、一般的な会社員とは、そしてそれまで見てきた企業とは、ずいぶん異なるということも、その理由の一つだった。他にも様々な部分で、迷いやためらいがあって、実際に仕事をしてみなければわからない部分も含め、未だに不安が拭い去れないこともある。


 ここで小説のことについて話は戻るけれど、仕事をしながら小説を書き続けるにあたって、譲れない軸として明らかになったことがある。
 どんな仕事をしても、小説に活かせないものなどないけれど、今までの人生経験からうまく結びつかない、小説とはほとんど関係ない仕事を、単なる生活のための仕事として割り切って、多少の我慢をしながら生きていくという生き方は、おそらく自分には難しいのではないかということである。
 例えば、公務員としてきっちり安定した勤務時間と収入を得ながら、多めの空き時間を小説に充てるような、良く言えばオンとオフがきっちりしているスタイルがそれに当たる。
 多くの人が理想とする暮らし方かもしれないし、それを否定するつもりはまったくないけれど、もしそれが、安定した生活基盤と自由時間捻出のため「だけ」のものなら、きっと僕は満足できないだろうと思う。


 少し遠回りだが、そのことと関連して、小説家、あるいは作家に「なる」という言い方が、僕はあんまり好きではない。それは小説家を一つの「職業」として、小説を書くことを一つの「仕事」としてみなす言い方だと思う。
 でも、小説家として生きることは、そういうことではないと僕は考えている。書くことそのものが生きることだと前述した通り、自分にとってはそれが生きることの一部として含まれているから、小説を書くことを仕事とみなしてしまえば、小説を書くためにいろいろと考えたり読書をしたり新たな人生経験のために旅行したりするのはすべて、「仕事」だということになる。
 会社勤めとは違って、仕事をしているときとしていないときのボーダーラインが明確でなく、ずっとグレーゾーンの状態が続く。


 けれど本来、すべては自分が生きるというそのことのうえで行われるものであって、白と黒とがはっきり塗り分けられる人生などありえない。
 ものを書くことが生きることそのものであることと同じく、仕事をすることもまた生きることそのものとするなら、選び取る生き方、選択する働き方もまた、同じようなものでなければならないのではないか。


 そして、企業に入って働き、収入を得るということは、収入に値する何らかの貢献を世の中に対して行うことであり、単純に自分の生活のためだけのものではないことを意識して生きていたい。金儲けのための仕事はだから、手段を目的化しているように思えて、生きがいを見い出せそうにない。きれいごとみたいに聞こえるかもしれないけれど、本当にそう思っているから就職先がこうなった。


 明日面談をしにいく企業は、そんな、貢献の意識、生き方のスタンスが、実は経営理念に刻まれている。それが度重なる選考の場で、社員の方に浸透しているのがわかったから、また、そういうひとたちに自分の思いが伝わったから、今こうして、入社を決意できるのである。


 改めて長く書いてはみたけれど、うまく自分の言いたいことを言い切った自信があんまりない。これまで考えてきたことがあまりに多すぎて、これだけ書いてもまだまだ書ききれないからだと思う。でも、文学と哲学に力を注いできた者として、それを直接的に活かせるであろう道を切り拓けたことが、自分にとって本当に大切な事実としてここにあるのは間違いない。