ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』を読む

 GWと同じ日数の連休をいただいて、緊急事態宣言と連日の雨天によってどこにも行けないなかで、誰と会うこともなく読書に勤しんだ。
 メルヴィルの『白鯨』を5月に通読したように、まとまった時間のあるときにしか読めない長篇を読破したいという思いで、買って置いたままだった東山魁夷『風景との対話』と鮎川哲也『風の証言』を読み終えて、書店に行って品定めした。
 
 
 『白鯨』を読んでいたこともあって、5月辺りから頭の中にあったのがヴェルヌの『海底二万里』である。面白いのはわかりきっていたけれど、普段ならわざわざ手には取らないジャンルだった。日本の純文学作品でもないし、ミステリでもない。ヴェルヌについては、『十五少年漂流記』を書いたことなどから、『海底二万里』も、子どもから大人まで楽しめるものなのだろうなと漠然と思っていたくらいで、もしかすると児童文学的な位置づけでもあるのかも、とすら勝手に決め込んでいたところもあった(実際に岩波少年文庫など、複数の出版社から児童文学として翻訳されたものが書店にも並んでいる)。
 
 それでも読もうと決めたのは、『白鯨』から得られたものが、あるいはそれに近いものが、そこにもあるのではないかと思えたところにある。書かれた時代は『白鯨』とそれほど変わらず、いずれも海洋冒険小説として名高い。科学が現代ほど進歩していない時代ゆえの人間の想像力が、進歩しすぎてしまった現代を生きるわれわれに教えてくれるものは、あまりにも多いと思う。
 
【▼以下、余談】
 話が少し逸れるけれど、鮎川哲也氏のミステリを最近よく読むのも、似たような動機によるのではないかと思った。PCやスマートフォンによるインターネットはもはやインフラの一つであり、それが存在しなければ社会の基盤が揺らいでしまう現代だけれど、少し昔の小説においては、そんな情報機器の存在が、小説そのものを成り立たなくしてしまう。
 リアルタイムで人間の位置情報が記録されたりメッセージを送れたり、国内外の出来事に瞬時にアクセスできたり、アプリと家電を連携して遠隔操作したりと、便利ではあるものの、現代のミステリにおいて、これほどアリバイ操作がしにくいことはないのではないか。仮に情報は改竄できたとしても、事件当時そこにいなかったという偽りのアリバイを構築するのは容易ではない。
 だからこそかえって、鮎川哲也氏の作品は、時代に合ったリアリティではなく、阻害要因を排除したミステリとしての普遍性を求めて読んでしまうのだと思う。そこには純粋に、アリバイが崩れる瞬間の美しさが表現されており、作品としての完成度の高さを読み手は味わうことができる。
【余談終わり】
 
 話を戻せば、『白鯨』は1851年、『海底二万里』は1870年の作品である。科学的、生物学的な見地からは否定されてしまう要素も多々あるだろうけれど、そこには小説ゆえの虚構性に託された人間の真実が確かに息づいている。ヴェルヌが描く、GPSもグーグルマップもない海底に広がっているのは、比類なき想像力のきらめきだった。
 
 もともと『海底二万里』について持っていたわずかな知識とイメージをここに白状すれば、ノーチラス号と呼ばれる潜水艇で、海底を旅していく物語(SF)なのだろうというくらいであって、乗組員がどんな人間で、どういう経緯でそれに乗り、何を目指しているのかなど、一切知らなかった。
 だから、主人公の博物学者が海に出現した怪物の情報を聞いて乗り込んだ船が、潜水艦ではなくフリゲート艦であることにおや、と思い、それが結果としてノーチラス号に乗り込むことになる経緯をたどって、一気に物語に引き込まれた。
 
 主人公のアロナクス教授とその使用人コンセイユ、そしてカナダ人の漁師ネッド・ランドの3人は、ネモ船長に導かれ、目的不明のまま海底の旅に出航する。ネモ船長は陸で生活する他の人類と絶縁し、ノーチラス号のなかで――海中で生きている。彼との同行は、果てしない海洋探査でありながら、潜水艇への無期限の幽閉を意味する。彼らは艦内の窓から見える海底の光景に心を躍らせながらも、二度と故郷へ降り立つことができないのではないかという不安を抱えたまま、長い長い海の旅を続けることになる。
 
 海で出会う動植物は詳細に列挙され、物語の舞台が確かな現実の海であることを伝える。その一方で、海底での生活を可能にするノーチラス号の現実離れした性能には、ワクワクするような憧れを募らせるものがある。学者として航海をずっと続けていたい知的好奇心と、海中での幽閉生活から自由になりたい人間としての欲求との葛藤に苛まれる心理描写に加え、そんな彼と苦楽をともにするコンセイユとネッドの信頼関係や軽妙な会話が読者を飽きさせない。さらには素性も目的も詳しく明かされないネモ船長の描写は、まるで白鯨モービィ・ディックを虎視眈々と狙うエイハブ船長のように、何か底知れない感情に突き動かされていることを暗示する。その行動原理に何があるのか、読み手としては主人公たちとともに海底の景色に驚嘆しながら、その航海がどのような形の結末を迎えるのか、気になって仕方がなくなり、ページをめくる手を止められない。
 
 いくつもの難局を潜り抜け、その旅路の果てを見届けたとき、夢のような海底旅行の過程が走馬灯のようによぎり、それが終わってしまう名残惜しさを覚えながら、物語として非の打ち所がないと思った。
 列挙される生物たちが、画像検索で一瞬で確認できてしまう時代だけれど、その名前と描写から想起される姿形や魅力的な挿絵が、当時の人々に与えた衝撃はいったいどれほどのものだったのだろう。世界が今よりもずっと広かったのだという、そんな手触りがページから伝わってきた。あっという間の約900ページ。名作と呼ばれるものには、国や時代を超える普遍性があるのだということを改めて実感させられる。
 
 そして、通読して広がった想像のなかの海で今、白鯨モービィ・ディックを追い続けるエイハブ船長のピークオッド号と、果てなき深海探索を続けるネモ船長のノーチラス号が共存している。
 色彩の異なる二つの古典的名作が自分のなかで重なっていく感動があって、読み広げたことで見えてきた世界に驚いている。活字の海は、現実の海より遥かに広く、深い。人間の想像力が物語の推進力となり、虚構の氷山を突き進んだ先に、真実の光が差し込んでくる。閉塞感が寄り添う時代にあって、読書がもたらしうる潤いは、現実を生きる確かな活力になる。想像が検索に取って代わられ、知識より実践が重んじられつつあるなかで、想像もつかないような物事に思いを馳せる行為と、その土台になる知識欲と好奇心を忘れないでいたいと思った。