雨のちハイデガー

 何かを考える時間を避けるように、できるだけ何も考えなくてもいいように、コンテンツに身を任せて休日を過ごしきる。疲れているとき、身も心もそういう時間を求めているからこそ、そんなふうに過ごすことについて、その最中には何も思わない。何も考えなくていいように、動画を見たり、ゲームをしたりする。むしろそれらのコンテンツは、何かを考えずに済むようにすることが存在価値なのではないか、とすら思うが、そこに没頭しているときは何も思わない。
 
 やがて休日が終わりを迎えるとき、ふと周りが見えるようになって、何も考えていなかった自分を悔い、何かしなければと慌てる。
 
 本当の意味で何も考えていないわけでは決してないのだと思う。
 そんなふうに何かに没頭して自由な時間をだらだらと過ごすことができるのも、一つの幸せであると考えられる。思うがままに怠惰でいられる心地よさが、そこにないわけではない。それはそれで有意義ではないかと、ひとりで過ごすその時間を、静かに肯定できるなら、それでいいのかもしれない。
 
 ただ、このままこうやって死んでいくのだろうか、と考えたとき、どうしても、それでいいやとは思えずにいる。
 
 独りではない人間をうらやみ、独りでいてはいけないと焦り、言葉をインターネット上に投げ、波紋をただ見つめる。
 
 横たわる緊急事態宣言を前にして、それでもそれを言い訳にしたくなくて、何か考えなければと思っているうちに、休日が終わり、仕事に打ち込む日々に戻る。
 
 読書はそういう無意味に思われる日々への抵抗で、読む前とは違う自分を求め、ページをめくることができる。
 だからきついのは、読書ができるエネルギーが保てないときだ。身体を休めることしかできないのは、おとなしく休めという心身の悲鳴だと思うけれど、そんな休息と仕事のサイクルでは、そのまま死んでいくかもしれない恐怖に立ち向かえない。
 
 そういうことを考えていたとき、一言足らずの会話をSNS上で交わすことがあって、たったそれだけなのに、救われた思いになった。
 結局のところ、他者を求めるさみしさに屈しているだけで、それはずっと変わらない(延々とここに同じようなことを書き続けている)。
 
 さみしいだけでしょう? 誰かとしゃべれば? と誰かが言う。じゃあ誰と? と思う。
 このまま死んでいくかもしれないのが怖い=さみしい、なのだろうか。
 死に近づくことへの恐れを「さみしい」に含ませるのは、さすがに無理があるのではないか。
 でも、だからといって、突然「このまま死ぬのが怖いんです」などと誰かに話しかけるわけにもいかない。
ハイデガーっぽいですね、と言われそうだが、ですよね、としか言えない)
 
 そんなわけで、文章を書き続けるのにふさわしい温度感を失ったまま、雑感として記事を終えることにする。
 深刻な雰囲気をうやむやに濁しながら、仕事へと舞い戻る。
 こういう思いに駆られたとき、ひとはどうするのだろうと思いながら。
 

 ひとは言う、死は確実にやってきはするが、しかし当分はまだやってきはしない、と。この「しかし……」でもって世人は死の確実性を否認している。「当分まだやってきはしない」というのは、たんなる否定的な陳述ではなく、世人がおこなう一つの自己解釈なのであって、世人はこの自己解釈でもって、差しあたってまだ現存在にとって近づきうるもの、配慮的に気遣いうるものでありつづけている当のものへと、おのれを指示する。日常性は、緊急を要する配慮的な気遣いのほうへとせきたてられて、疲れはてた、「無為の、死への想い」の桎梏から脱するのである。

 

M・ハイデガー存在と時間 Ⅱ』渡邊二郎・原佑訳 (中公クラシックス)p.306