メルヴィル『白鯨』を読む

 どこにも行けない以上、本の世界に行くほかない。そんな思いで、普段なら読めない長編を物色する中、作品があまりにも多様なモチーフに用いられながら、あまりにも通読へのハードルが高そうな巨編を見つけ、手に取った。
 
 ハーマン・メルヴィル 八木敏雄訳『白鯨』(岩波文庫
 
 間接的なきっかけになったのは、フランス文学者の野崎歓が、「翻訳、このたえざる跳躍」(岩波書店編集部編『翻訳家の仕事』による)で八木訳を絶賛しているのを目にしたことによる。「夢中で読み進め」、「上巻を一息に読み終え」たという一節に半信半疑になり、その真偽を確かめるべく立ち読みに赴いたら、書店で100ページ以上立ち読みしてしまった。訳文のリズムの素晴らしさゆえか、文章を目で追っていて心地よく、読み進めるのを止められないまま、波にさらわれるように長い読書への船出に導かれていた。
 
 本を開けば、現実の地平を遠く離れて、一気に大海原へ引きずり込まれるようにして、どういうわけか読んでしまう。これは本当に翻訳の偉業だと思うのだけれど、取り立ててスリリングでない場面ですら、読んでいてまったく退屈しない。結局のところ、中断の理由が集中力の限界と睡魔による以外は見当たらないまま、約3日かけて読み終えた。これが1851年発表の作品だというのが、何度考えても凄まじい。
 
 長い航海、その長さを物理的な文章量が物語る(上中下巻で計1200ページを超える)。緻密に浮き彫りにされていく周縁部は、鯨の生態、捕鯨の歴史やその方法、船上での日常や乗組員の思考・行動に至るまで様々で、ピークオッド号の航海の一部始終を詳細に描き出す。誤解をはばからずに言えば、本文のほとんどはその多種多様(あるいは雑多)な周縁部である。それは冗長で無駄なもののように思えるが、小説における無駄とはいったい何なのだろうという疑問がここで浮かんでくる。要点だけを書けば何事も「たったそれだけのこと」。しかし、すべての物事にはしかるべき過程があり、一連の過程を通らずして結果にはたどり着けないものである。
 脱線は歴史に、思想に、哲学に、曲がりくねったり浮いたり沈んだりして、気づけばまた甲板に戻ってくる。その語り口も、小説、劇、評論と、うねる波のように形を変え、波間には知識と思想と感情がきらめくようである。
 
 全体を概観すれば、まず冒頭では、鯨に言及した書物を聖書や他の文学作品、旅行記など片っ端から引用し、人間が鯨をどのようなものとして捉えていたのかを確認する。実はその「語源」と「抜粋」だけで50ページ近くに及び、そのせいか何も知らずに読もうとする人間を門前払いする仕様になっている。(これから読む人にきちんと伝えたいのは、流し読みで構わないからさっと通読し、第一章に入ってほしいということである。本編にたどり着かずにあきらめることは、港までやってきたのに鯨の姿を拝むことなく立ち去ることに等しい。あまりにもったいない)
 
 そして上巻は、乗組員の一人であり語り手であるイシュメールが、港を目指し、食人種のクィークェグと出会い、乗船、出航するところまで。
 中巻は、その航海のさなか、実際に鯨を仕留め、それを解体したり、海上で他の船と出くわしたりといった場面を描きながら、乗組員の描写も細かくなされる。自分の片脚を奪った白鯨への復讐に執念を燃やす船長エイハブ、(巨大カフェ・チェーン店にその名を冠する)冷静な一等航海士スターバック、軽快な口調の二等航海士スタッブなど、彼らの言動、たたずまいはつぶさに描写され、船上を俯瞰する視点で読み進めていたはずが、気づけば乗組員となり、彼らの一挙手一投足を近くで見ながら、遥か海の向こうを睥睨するようにページをめくっている。
 下巻に及んで、いよいよ白鯨モービィ・ディックのいる海域へと航海は進んでいく。
 
 もしもこの小説が、たった100ページほどでエイハブ船長と白鯨モービィ・ディックの闘いを描いて終わったとしたら、おそらく誰の記憶にも残ることはないだろう。あるときは凪の海を滑るように進み、またあるときは雷鳴轟く嵐の荒波に揉まれ、さらには羅針盤が狂うトラブルにも見舞われながら、随所に挟み込まれる捕鯨の詳細な方法や、他の捕鯨船との出会い、そして人物描写を経て、読者はやっとのことで、白鯨モービィ・ディックとの邂逅を果たす。読む前に想像していた激戦の様子はもちろん語られるが、それは本当に終盤のことだ。
 
 しかし、これだけの長さでありながら、全体の構造はシンプルである。
 美しく強大な敵を追い続け、挑み、届かずに終わる。シンプルだということは、それだけ多様な読みの可能性を持ち、多様な解釈に耐えうる証だと言える。白鯨モービィ・ディックを何にたとえ、それを追う船長エイハブを何になぞらえるのか。それを考えるだけでも、そこに秘められうる寓意に胸が躍る。言葉でものを書き、何かを表現する困難に立ち向かいながら、志を遂げられず終わる――それを心のどこかでわかっていながら、燦然と輝く文学史に、一本の銛を突き立てようという執念に身を捧げる人間、というように、身勝手な想像は幾方向にも広がる。
 
 海面に大きな渦を起こし、船を大破させて去っていくモービィ・ディックの凶暴さに打ち震えると同時に、波しぶきを上げて跳躍する真っ白な体躯の美しさが心のまぶたに焼きつけられる。読み継がれ、語り継がれうるだけの解釈の多様性と、多方面に応用可能な物語の雛型がそこにあるという点で、世界の文学史に刻まれているゆえんを体感できる。日常の物事に、神話の一節があてがわれることがあるように、『白鯨』の物語もまた、そういった神話性を帯びているようにすら思える。
 
 時間をかけて名作を読むよろこびは、何ものにも代えがたいものである。それが何かの役に立つかと言われても、返す言葉はこじつけに過ぎないものになってしまうけれど、それは読書に限らずすべての娯楽に言えてしまうことだ。
 
 『白鯨』とは関係ないが、テーマパークという娯楽について語る、印象的な山崎正和氏の文章を引用しておきたい。
今日のテーマパークの最大の効用は、それが一日の体験に文字どおりテーマを与えることであるかもしれない。昔の「伊勢参り」や「大山詣で」がその原型であって、多くの娯楽や労苦を一まとめにして、それに信心という主題を与えてくれた。「何をしてきたか」と聞かれれば、「伊勢参り」にと答えればよいのであって、それは達成感を深く助けていたはずである。現代でも遊び疲れた一日の後に、雑多な体験をまとめて「ディズニーを見た」、「オランダを歩いた」と言えることは、小さな幸福ではないだろうか。(朝日新聞社『世紀を読む』より)
  引用したのは20年も前の本だが、昨今ではその状況も相まって、よりいっそう「達成感」と呼べるものが得難くなっている。この文脈に沿って、今こそ言っておきたいのが、「メルヴィルの『白鯨』を読んだ」というそのたった一言だったりする。