静かに凪いだ物語の海へ

 本のなかに、ひとつの世界を見た。現実に近いようで、けれど確かな隔たりを持った、慎み深くうつくしい、物語の世界である。350ページほどの紙の上、静かに揺らめく言葉たちは、優しい光を放ちながら、読み手をその深遠な世界へと連れ出してくれた。


 小川洋子[著] 『猫を抱いて象と泳ぐ』(文芸春秋


 今年の本屋大賞にもノミネートされたこの作品は、チェスを愛し、チェスに愛された天才、リトル・アリョーヒンと呼ばれる一人の少年の物語である。友達のいなかった少年が、一つの事件をきっかけにして、動かない回送バスに住む老人に出会い、チェスというゲームの存在に触れる。そのささやかで劇的な出会いから、少年はチェスの魅力に引き込まれ、黒と白の織り成すチェス盤の海の中へ飛び込んでいく。


「そう、チェスだ。木製の王様を倒すゲーム。八×八の升目の海、ボウフラが水を飲み象が水浴びをする海に、潜ってゆく冒険だ」


 マスターと呼ばれるその老人とチェスを指すとき、中でもとりわけ重要な局面にきたとき、少年はテーブルチェス盤の下にもぐり、マスターの飼い猫ポーンの背中を撫でて次の手を考えた。すると心はみるみる落ち着き、チェス盤のうえで奏でられる音楽に、じっくりと耳を澄ませられるようになる。
 以来それが少年のスタイルとなり、マスターの勧めで身を置くことになったチェス倶楽部で、盤の下から人形を操作して対局をやってみないかと言われ、彼は相手に姿を見せることのないチェスプレーヤーとなる。「盤上の詩人」と謳われたロシアの天才チェスプレーヤー、アレクサンドル・アリョーヒンになぞらえて、その人形が、そして彼自身が、「盤下の詩人」、リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるのだった。


 彼の言葉はすべてチェスを通して語られ、その軌跡がつづられた棋譜は、ひとつの芸術作品として、その存在を意味づけられる。
 この物語がうつくしいと感じられるのは、八×八升の小さな世界で語られる詩、あるいは奏でられる音楽が築き上げられていく過程を、丹念に、少年に寄り添うようにしてたどっていけるからだと思う。勇気を持って着実に前進を試みるポーン、盤上を縦横に走るルーク、初めに置かれた場所の色の上しか駆けることのできない斜め移動のビショップ、白から黒へ、黒から白へと異なる色の升にしか飛べないナイト、縦横無尽に升を飛び回るクイーン。それらが八方に一升ずつしか動くことのできないキングを目指し、チェス盤という海の中で互いに響き合う。
 リトル・アリョーヒンと、彼をサポートするミイラと呼ばれる女の子との会話に、こんなものがある。


「計算上、チェスの可能な棋譜の数は十の一二三乗あるんだ。宇宙を構成する粒子の数より多いと言われているよ」
(中略)
「じゃあチェスをするっていうのは、あの星を一個一個旅して歩くようなものなのね、きっと」
「そうだよ。地球の上だけでは収まりきらないから、宇宙まで旅をしているんだ」
「“リトル・アリョーヒン”という名の宇宙船に乗ってね」


 気がつけば読み手は、果てしない宇宙旅行へと船出している。チェス盤の下で、奏でられる駒のメロディに耳を澄ませるリトル・アリョーヒンと一緒になって耳を澄ませ、白と黒、三十二個の駒の動きを、固唾を呑んで見守っているのである。
 一つひとつの駒にそれぞれの役割や意味が与えられ、各々がそれをまっとうすることで棋譜がうつくしく輝きを放ち始めるように、一人ひとりの登場人物に、ひとしく愛が注がれ、その役割を誰もがまっとうしている物語の姿は、否応なく読み手の心を打ち、温め、盤上に満ちる静けさをもって浄めていく。
 読んでいて、そのうつくしさに何度鳥肌が立ったことだろう。心がふるえるというのはこういうことなのだと、感じ入ってしまった。


 小川洋子氏がつくり出す物語のうつくしさは、一体どのようなものを根拠にしてあるのか。それを考えたとき浮かび上がるのは、物語の背景を彩る、失われたものの哀しみだった。『博士の愛した数式』にも共通して言えることだと思うし、川上弘美氏が別の作品の書評で書いていたりするのだけれど、この物語の主人公であるリトル・アリョーヒンの育った背景にも、二度と戻らないものたちのきらめきが随所に見える。
 事実として失われてしまったものは、しかし彼の内面を形作る一部としてあり続ける。過去を振り返ったとき、あるいは人生の岐路に立たされたとき、それらは不意に甦って彼を支え、ともに深遠なチェスの海で彼と泳ぐのである。そして読み手は、流麗に紡がれたその言葉を追いながら、確固として存在する彼らの物語が、何でもない言葉の集まりによる儚き虚構だということに気づき、はっとして顔を上げる。何度も読み返すことができようとも、初めて物語を受容する、そのかけがえのない時間が、たまらなくいとおしく感じられて目頭が熱くなる。


 チェスは、犠牲が勝敗を左右するゲームである。将棋とは違って、取った駒を再び盤上に打つことはできないし、取られた駒は二度と戻ってこない。駒が、それぞれのやるべき仕事を尽くしてチェス盤から去っていくことで、その尊い犠牲のうえに、うつくしきチェックメイトが描かれる。


 失われたものにも、そしてその哀しみを抱きながらありつづけるものにも、惜しみない愛を持ってつくり出されたこの世界の余韻に、それがやがて失われていくものだからこそ、大切に大切にひたりながら、せめて何とかまた思い返せるようにと、こうして感想をつづった。
 どうしても書きたいという思いが抑えきれず、大学のパソコンから更新したしだいである。


 誰にでも薦めたいなと心から思えるような、そんな小説だった。