Refloat

 と、言っておきながら、書かないなら書かないなりにいろいろと考えてしまって、結局は書いたりするんですが。まあ、ろくでもないことです。


 浮き沈みの話をします。


 生きているとやっぱり、浮いたり沈んだりがつきないものです。いろいろな波が押し寄せては返すなかで、それを乗りこなそうとしたり、抗ってみたり。溺れて沈んでしまうこともあれば、海面に浮かんできて、やがて空へ舞い上がることもあります。深く暗い水底へ沈んでいくような心持ちに襲われたり、天にも昇るような思いに心を震わせたり。そしてそのときどきで、目に映るものは変わってくるし、感じ方もそれぞれです。
 そして、誰だって一人で泳いでいるわけではありません。海は一つ。すべての海流は必ずどこかで潮目をつくっているし、まったく別の海に行くことは、生きているかぎり多分無理です。近くを泳ぐ誰かが必ずいて、ときに一緒に泳いでいくこともあります。


 いちばんつらいのは、水面から突然沈み始める瞬間。流れ込んでくる水に抗えず、それまで見えていた空は波に覆われ、息苦しさにもがくことしかできません。視界に現れるのは底知れぬ深淵で、太陽の光も届かないような闇のなかへ、ただ沈んでいくしかない自分の身を、ひたすら嘆くことしかできないような時間が流れます。身体を翻せば、海面を挟んで見える空に舞う人々の姿。願い続けた飛翔が叶わぬ自分の身体が、より憎く思える瞬間です。けれど、気を失うことはできません。これは精神的な世界の海の話、肉体が死ぬまでわれわれは死なず、浮いていようが沈んでいようが、心は荒波にさらされ続けれるのみです。
 しかし、ある程度沈んだとき、ふと楽になる一瞬が訪れます。日の光から隔たれた深さまで沈んでしまえば、見えてくるのはそれまで考えもしなかった海の中でしかない。海面から眺めただけでは見えもしない深みを漂っている自分に、ふと気付きます。
 そのときになって初めて、空を見上げて泳いでいた自分の足元に、そんな深淵がつねにあったことを知ります。沈んだ気持ちの向こうで、その深みに、無意識ながら必死になって慣れようとしている自分に出会います。
 けれどまだ、沈むのをやめることはできません。水を飲んで重くなった身体は、浮き上がろうとしても言うことを聞かず、さらなる深みへ連れ去られていくことになります。
 やがて海底近くまでたどり着いたとき、そこで沈むのをやめた自分の身体に気が付きます。目は暗闇に慣れ、わずかに差し込んでくる太陽の光を見つけ出せるようになります。その瞬間、重たくなっていた身体に浮力が働き、再び海面に向かって上昇が始まります。


 空高く舞い上がるような心持ちを、誰だって求めているものです。しかしながら、高く舞い上がったとき、そこに墜落の危険がつねに寄り添っていることを、われわれは忘れてしまいます。
 それを思い出すのは結局、沈みゆく身体の重みを感じながら、ただ海流に身をゆだねているときです。ただ、それでも生きているかぎり、空への憧れが尽きることはありません。沈んでいても、墜落の恐ろしさに嫌気が差していても、自分の身体に宿る浮力を信じて、人は深淵を泳ぎ続けるしかない。その一方で当然、水底で生き続けることだって選べます。


 けれど結局のところ、浮いていようと沈んでいようと、一つの地点にとどまり続けることはできないわけです。生きている以上、どこかへ向かわざるをえない。何度沈んでも同じ水底の景色はありえないし、何度空を飛んでもその快さは新鮮なものです。
 大切なのは、そのときどきで、自分のいる深さをしっかりと見つめることではないかと思います。目を閉じてしまえば、どこへ流されるかわかったものではないですし。


 と、だらだらまとまりなく書いてみた、取りとめもない浮き沈みの話でした。ろくでもないことを考えていたことがはっきりとわかる文章ですね。
 読んだ人に何が伝わるのか全然わかりません。
 根気強く最後まで読んだ人は、もしかしたら沈んでいるかもしれませんね。