ここではないどこかのきらめき

 ページをめくることがいとおしく感じられる読書の時間は、至福以外の何ものでもない。そんな幸せな時間を約束してくれる物語の数々を、今、味わうように、かつ、むさぼるように読んでいる。


 吉田篤弘 『針がとぶ』(中公文庫)
        『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(中公文庫)
        『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫


 立て続けに3冊も、この短期間に、同じ作者の本を読むのはいつ以来かわからない。それくらいに、没頭して読み進めている。感想を書かずに次々と読んでしまうことが続いていたので、その記憶が薄れてしまうのがもったいないように思えて、こうして記録しておこうと思った。


 『針がとぶ』は、中公文庫から出た文庫化の最新刊で、現在多くの書店で平積みされているのを見かける。それぞれが独立した短篇でありながら、物語のどこかが優しく互いにつながり合って、一つの世界を創り上げている。物語の住人にはわからないその静かなつながりを、読者だけが享受できる贅沢がそこにはあった。
 雑音を削ぎ落とした、静かな物語は、解説を書いている小川洋子さんの世界にも通ずる。むしろ、小川洋子さんでなければこの短篇集の解説は務まらないくらいに思えた。
 どこか遠い世界に、確かに存在しているであろう人々の、いとおしい物語。レコードに針を下ろし、鳴り響くメロディに耳を傾けた一瞬のなかに、天の川のようなきらめきを見て取れる。夢を見ていたかのような、そんな心地に恍惚となる。切り取られた物語が、流星となって降り注ぎ、まばたきをするのを我慢するように、一つひとつの星をきちんとその目に収めようと、読み進めていた。優しく美しいという言葉が似つかわしい。


 『それからはスープのことばかり考えて暮らした』は、月舟町という架空の町が舞台の短篇連作である。失業した主人公は、ある脇役の女優に惹かれ、その女優の出る場面を見るために映画館に通う。そして、大家さんに勧められたサンドイッチ屋「トロワ」のサンドイッチを食べ、そのおいしさの秘密に頭をめぐらせる。彼はその「トロワ」を手伝うことになり、スープ作りを依頼される。最高のスープを作るために、「スープのことばかり考え」始めるのである。
 最高のスープを生み出す過程で、彼を取り巻く人々との交流がいくつも描かれていく。最後まで読み通せば、そのスープが、決して彼だけの手で生み出されたものではないことがはっきりとわかる。魅力的に描かれる人々との関わりは、紛れもなく最高の調味料であり、それを見届けながら込み上げる読み手の思いは、最高の隠し味になっていると言っていい。絶品だった物語の連なりに、ごちそうさまでした、という言葉を添えたくなるほどである。


 『つむじ風食堂の夜』は、同じ月舟町を舞台にしてはいるものの、描かれるのは、風が吹き込む十字路にある「つむじ風食堂」を中心とした、人と人との関わりである。物語は夜にかぎられ、しんとした夜の空気が、文章を通じて伝わってくる。
 吉田篤弘作品を立て続けに読みながら、そのどれもが、どうしようもなくいとしい登場人物によって創り上げられていることを実感する。少ししか登場しない人物にも、きちんと命が吹き込まれ、彼らは活き活きとそこにいる。現実を克明に描き出すような人間の描き方ではないけれど、そこには静かに優しく人間を見つめる視線が感じられる。喧騒から遠く離れた場所から、確かな人間の本質を見ている。物語のなかだけの世界かもしれないとは思いつつ、けれどこの世界のどこかで、彼らは今日も生きているのではないかと思わせる、そんな文章である。
 彼らがそうやって生きているなら、自分ももう少し頑張れるような気がしてくる。これ以上素敵な読書体験はない。


 少しでもその世界の素晴らしさが伝わればうれしいと思いながら、『空ばかり見ていた』の続きを読みたくて、筆を置くことにする。