形見の声に耳を澄ませて

 小川洋子[著] 『沈黙博物館』(ちくま文庫


 久しぶりに読み終えたこの小川作品は、実は就職活動中に購入したものである。どういうわけか読みかけて途中でやめてしまって、積んであったままだった。読みたくて買ったはずが、枕元に置きっぱなしにされ、あたかもその場所が本にとって正しい位置であるかのように収まってしまうと危険である。本来の役割を果たせぬままに死んでしまったみたいで、そこに書かれた言葉に宿った意志が浮かばれない。
 というわけで、そんなふうに気まぐれに時間の狭間に落ちてしまったこの小説を、正しいかたちで救うべく、今日一日で一気に読みきった。


 物語は、博物館技師である「僕」が、依頼を受けて小さな村に到着するところから始まる。まっすぐな黒髪が美しい少女に迎えられ、村のはずれにある大きな屋敷へと案内される。待っていた依頼主は、100歳に届いていようかという老婆であり、少女の養母だった。彼女は「僕」を面接し、ここにあるもので博物館をつくってほしいと依頼する。
 それは、その村で亡くなったひとたちの生きた証である、「形見」の数々だった。
 しかもそれらは盗品で、何十年も前から、老婆は村で死者が出るたびにその周辺に赴き、死者にとって最もゆかりのある品を盗み続けてきたのである。こう書くと、罪深いことのようにも思えるけれど、老婆にとっては、「形見」とはその肉体が生きた痕跡を、この世につなぎとめておくために必要な品々であり、その蒐集は使命感をともなった、何よりも大切な行為なのである。
「老いた世界の安息所」である博物館をつくることとなった「僕」は、助手となる少女と、屋敷の庭師の男と、その妻である家政婦とともに、老婆の指示を仰ぎながら、作業を進めていく。やるべきことは大きく二つ。
 一つは老婆によって集められた形見について、その持ち主がどのような人物であったかを、彼女の記憶の中に刻まれている情報をもとに、文書化するという仕事。
 そしてもう一つは、村で死者が出た際に、その形見となるものを見つけて屋敷に持ち帰るという、かつて老婆が行っていた仕事である。
 物言わぬ死者の声を聴く場所として、つくりあげられていく博物館は、その名を「沈黙博物館」という。


 文章を読んで、静かだとか、冷たいなどという感覚をおぼえてしまうのは、やっぱりそれが、小川さんの書いたものだからだと思う。これほどまでに澄んで、ぴんと張り詰めた、冬の空気のような静けさを書ききる作家をほかに知らない。
 小川さんの小説を読んでいつも思うのだけれど、その閉じられた物語の世界の中に、読者さえ封じ込めてしまうような力がそこにある。


 内容に触れずに感想を書くのが厄介な作品だと思う。多分、形見を集める作業を進めていくうちに、「僕」が村でたびたび起こる殺人事件の真相に迫っていくからだろう。少しミステリーの要素もある作品である。
 ただ、読み始めてしまえば、博物館をつくることにのめりこんでいく「僕」のように、死者の肉体の声なき声に耳を傾け、それに聴き入ることになる。失われゆく記憶を丹念に言葉にしていく作業は、生きていながらも死の世界へと足を踏み入れることのようにどこか危うく、不穏なものを感じさせる。
 それは、生きている人間同士の関係を考えてもそうなのかもしれない。どれだけの言葉を介してもわかり合えない関係がある反面、何も言わずとも通じ合える関係もある。この作品だけに言えることではないけれど、小川さんの小説を読んでいると、言葉による関係の脆さも垣間見えるような気がする。


 作中で、沈黙の伝道師と呼ばれる人々が登場する。彼らは一切言葉を発しない沈黙の行に入り、修道院で生活する。何も語らない彼らはただ、人間の、あるいは自然の内なる声を受容し、つつましやかに生きる。
 自らは何もアウトプットすることのない存在である彼らとの交流のなかで、「僕」と少女が直面することになる、言葉のない葬儀の場面に漂う静寂が、特に印象深い。


 読み終えて、自分の死に際して形見に選ばれるものは何なのだろう、と考えてしまった。奥深く、冷たい静寂のなかに、ほっとするような温もりも感じられるものの、やはり死者に寄り添う物語ということもあって、ささやかな怖さを帯びた作品だと言えると思う。
 現実の世界から忘れられたような村で起こる物語は、現実を生きるわれわれにとって忘れがたいものになるだろう。


 ちなみに、解説はおなじみ堀江敏幸さんである。今回も素晴らしかった。