山上の聖域にて

 山間部を縫うように走る南海高野線に揺られ、高野山駅へのケーブルカーが出ている極楽橋駅まで、ゆったりと読書をしながら過ごしていた。橋本駅で後続二両を切り離し、各駅停車で紀伊山地を登っていく列車。一駅ごとに標高が上がり、期待もゆっくりと高まる。
 極楽橋駅で降りたとき、思わず着ていたパーカーのジッパーを閉めた。冷たい山の空気に迎えられ、急斜面に停車するケーブルカーへと乗り込んだ。


 前もって計画していたわけではない。まったくの思いつきである。読書のために遠出したいという思いと、なんとなく南海高野線に乗ってみたいという思いがもともとあって、そこにテレビで見たスイスのユングフラウを走る鉄道の美しさが背中を押した。


 とはいえ、目的は旅先ではなく読書の時間確保のほうにウエイトを置いていたので、ろくに下調べもせず、高野山駅でケーブルカーを降りた途端、どこへどうやって行くかさっぱりわからなくなった。
 同じようなことを昨年伊勢神宮で経験しているので、まあ何とかなるだろうと駅にあった観光案内のパンフレットを抜き取り、そこでとりあえず金剛峯寺まで行く方法を調べた。見どころをめぐる足になるのは基本的にそこから出ているバスなのだと、その段階で知った。


 そんなわけでバスに乗り、市街地の景色を楽しむ。あらかた予想していた通り、土産物屋、銘菓の売店など、観光地らしい眺めが広がっていた。
 ただ、こんな感じだろうと思っていた風景であっても、この場所が標高八〇〇メートルを超える地だということを思い出してはっとする。空中都市というのはこういうところのことを言うのだろう。遠くに見える稜線を眺めてそんなことを思った。


 金剛峯寺は神秘的な空気に包まれていた。観光地として有名な寺社をあちこち訪れてはいたけれど、これまでにない、喧噪からの遠さを感じた。人の少ない平日だったから、というのも当然理由の一つだろうけれど、耳に入ってくるのが風に木の葉が揺れるささやかな音のみで、木々さえも遠慮しているかのような静けさが、そこには満ちていた。僕の後から団体の旅行客が歩いていたのを見たけれど、中に入るとほとんど人はいなかった。
 拝観順路を進んでいくと休憩できる大部屋があって、「足を伸ばして座ってください」と、尼僧の方からお茶とお茶菓子をいただいた。
 畳の感触が、足裏に心地よかった。


 お茶を飲み終え湯呑を返すと、先ほどの尼僧――女性の住職さん、と言うべきか――が、「一番いいときにいらっしゃったと思いますよ」と言った。
「そうなんですか」ある種の社交辞令的なものなのでは、とも思いつつ、相づちを打つ。
「ええ、気温も暑すぎず寒すぎずで、ちょうど行事も終わって一段落したところだから人も少なくて。明日ぐらいからまた天気も崩れるみたいですしね」
「なるほど、ちょうどよかったんですね」
 賑わっている様子が想像できたので、ほとんど貸切のような広間を見渡して、僕はうなずいた。
「今か、あとはいつも言うんですけど二月がいいんですよ」
「二月……ああ、一面雪景色なんですね」
「そうなんです。ここから見える景色が本当に水墨画みたいですよ」
 窓の外に目をやり、それを想像した。息を呑むだろうな、と思う。
「それにね、私ここに住んでますから思うんですけど、雪に覆われると余計にその静けさを感じるんです。自分がひとり、っていうのがはっきりわかるというかね」
 弘法大師の命がそこに息づくことを、確かに実感する瞬間なのかもしれない。うなずきながら、そんなふうに思えた。


「とりあえず金剛峯寺に行くっていう目的は果たしたので、次にどうしようかなと思うんですけど」
 せっかくだし、と思ってパンフレットを鞄から出して聞いてみた。
「やっぱり奥之院じゃないですかね」
「奥之院――ああ、やっぱりですか」
 パンフレットで目にするまで全然知らなかったけれど、そこに載っていた写真が美しくて、時間が許せば行ってみようとついさっき思った場所だった。弘法大師の眠る御廟がある、聖域である。
「暗くなるまでに行けますかね?」
「まだ大丈夫ですよ。そこに徒歩三十分って書いてありますけど、そんなにかからないと思いますし。ここからだったらバスが少ないんで、一つ歩いたところから奥之院行きに乗ってください」
 親切な説明にお礼を言うと、また二月にぜひ来てくださいね、と笑顔で見送っていただいた。ひとりで知らない場所へ行くと、そんな出会いがあるから楽しい。


 バス停まで歩いたものの、残念ながら次のバスは十五分後にしかなく、結局奥之院の入り口まで徒歩で行くことになった。ところどころ、街並みを写真におさめながら歩く。奈良とも京都とも異なる雰囲気が感じられた。山上に築かれた街だから、ケーブルカーが途絶えれば、車でなくては街を出られない、閉ざされた空間だと言えるのかもしれない。小川洋子さんの『沈黙博物館』が、ふと思い浮かんだ。


 奥之院へ至る道は、まさに聖域への入り口と言ってふさわしかった。樹齢何百年もあるだろう木々が手つかずのまま残り、それらに守られるようなかたちでいくつもの墓石が並んでいた。
 森林浴にもってこいの場所、という住職さんの言葉通り、傾きかけた太陽の光もたくさんの木の葉で遮られ、いっそうの涼しさに包まれていた。静けさは増し、太古の空気を感じる。自然がしみ込んでくるのではなく、自分が自然の一部になっていくような、そんなふうに表現したほうが近いのかもしれない。
 ただ、いざ歩き始めてみれば汗ばむくらいで、ゆったり自然を感じる余裕も薄れていった。思いのほか御廟は遠かった。


 遠かった、とは言っても、歩いていたのは二十分ほどだった。けれど、二十分しか経っていないのが不思議なくらい、緩やかに時間が流れていたように思えた。
 御廟の入り口には、「これより先、聖域につき、写真撮影禁止」という厳かな立札が立っていた。神秘的な雰囲気が高まっていくのを実感する。


 御廟の中は薄暗く、「聖域につき、私語を慎むこと」という看板すらあった。大切に大切に守られていることが、身体でわかった。約千二百年もの間、弘法大師はそこからひっそりと世の中を見つめているように思えた。空中に築かれた聖域で、変わらぬ自然が包む地で、変わりゆく現世を見守っているのかもしれない。
 身も心も清らかに澄んでいくように思えたのは、果たして森林浴だけの効果だろうか。いや、そんなはずはない。きっとそれだけではないのだと、確信に近い思いを胸に、奥之院を後にした。


 来た道をそのまま戻ってバス通りに出ると、時間はもう五時に近かった。灯りの少ないこの地が、日没の後にとっぷりと闇に包まれるのが想像できた。夜に体感できる静寂は、昼間とはまた違ったものなのだろうと思う。
 一泊以上の旅行などできそうもないけれど、二月にまた来られたらと思いながら、僕は高野山駅に向かうバスに乗り込んだ。