「気まずさ」の文学

 青山七恵[著] 『お別れの音』(文藝春秋


 最終面接で支給された交通費と同額だった1冊である。そして就職先が決まった瞬間から始まる恍惚の読書ライフの第一歩となる1冊だったりもする。明るい物語ではないけれど、就職活動へのお別れという意味に取れば、一応のところ結び付くとは思う。


 ひとの人生にふと入り込んでくる、忘れられない出会いというものがある。そして、図らずも印象に残ってしまう別れというものもある。6つの短編を統べるタイトルにもあるように、ひととの関わりのなかに突如違和感を残しつつ鳴り響くその音色が、この小説には刻まれている。


 出会いと別れ、という言い方をすると、学生の身分から考えて、何か桜だったり卒業だったりのきれいなものを思い浮かべることもあるが、そんな美しいものだけでは成り立っていないのが世界であり、人間関係である。


 ここにある短編すべてにおいて言えることが、この記事のタイトルにも書いた「気まずさ」ではないかと、読んでまず思った。本の帯には「6つの小さな奇跡」とあるが、書かれているのは、人間関係で図らずも生じてしまった違和感、すなわち「気まずさ」である。
 ざっと列挙すると以下のようになる。


 1話目の「新しいビルディング」は、「わたし」が入社した職場で仕事をともにしているが、仕事外の会話をほとんどしないフジクラという女性と。
 2話目「お上手」は、職場の近くで仕事をしている無口な靴の修理屋の男と「わたし」との関係。
 3話目「うちの娘」は2人の息子を持つ、妄想癖のある50歳の女性、雪子が、大学の学食で働きながら、頻繁に目にする女子学生との関係。
 4話目「ニカウさんの近況」では、どこで名刺を渡したかもまったく覚えていないが、転職とともに自分の近況を臆面なく知らせてきた二飼さんという男性と「わたし」。
 5話目「役立たず」では、配送会社に勤める男、阿久津が、大学時代にずっと気になっていた女性、弥生と、彼がその当時付き合っていた佳奈子との関係。
 6話目「ファビアンの家の思い出」は、外国語がそれほどできない「私」が大学4年のときに、イギリスに留学していた友人の卓郎に誘われ、スイスにいる彼の友人とともに旅行する話である。その、卓郎と、彼の友人であるナディアという女性と「私」との関係性。


 それぞれの物語において、すんなりとはいかない自分と相手の関係がしっかり見据えられ、描写されている。思えば青山七恵さんは、芥川賞受賞作である『ひとり日和』においても、20歳の知寿と71歳の吟子さんとの関係のなかでそれを実践していた気がする。
 気まずいと感じる瞬間は、生きていればそれなりにあって、その息苦しさゆえに、あんまり長い間記憶に残しておきたくないものだとは思う。けれど、気まずさが生じるという時点で、自分と相手はすでに無関係ではないことを証明することになる。もっと言えば、気まずさという異様な感覚が、自分と相手を結んでいることを示す唯一の感覚にさえなりうる。


 相手の考えていることがわからない。自分がどう思われているのかわからない。自分と相手との間に思い描いていた関係のイメージが、実際にはとてつもなくかけ離れていた――。
 ときに何かが小さく擦れるような音で、そして、ときに軋みを上げながら、ひととひととの関係は移ろう。自分と合わないひととの関係に息苦しさを感じるように、かみ合わない人間同士の齟齬を描くという作業は、書いていてもしんどいものなのではないかと、読みながら想像していた。
 青山さんがすごいのは、それを冷静な眼を持ちながら、背きたくなるものにも決して眼を逸らさず、したたかに書ききってしまうことである。


 前回読んだ山崎ナオコーラさんの文章から一転、じっくりと、重みを持った文章で伝えられる人間関係に、なんとも言えない緊張感を味わえた小説だった。