知性

 自分にない知性のあるひとが好きだ。それは言い換えると、自分にない表現、言葉を持っているということである。知性、賢さ、聡明さがにじみ出た、美しい言葉を使うひとに憧れるし、惹かれる。
 そして、その言葉で切り取る世界が、自分が見向きもしない着眼点、発想であれば余計に憧れる。


 そんなひとが、自分の言葉を褒めてくれたら、簡単に有頂天になってしまう。これほど素敵な言葉を紡ぐひとが、自分の言葉をよいと言ってくれる喜びは、何ものにも代えがたいとすら思える。


 けれど、そこに生まれたつながりは、果たして本当に、心のつながりなのだろうか。伝えたい思いを美しい言葉に乗せて交わし合いながら、通じ合うものとは何なのだろう。伝わると感じる喜びの中に、理解の悦びはあるのか。
 実際にそこにあるのは、もしかすると、好きな表現を綴る自己満足と陶酔にすぎないのではないか。


 憧れに手の届いた充実感の向こうに、果たして何があるのだろう。満足した後には多分、何もないような気がする。その虚無に新たな言葉が綴れたら、きっと大丈夫なのだろうけれど。


 伝わらないことや、わかりあえないことを受け容れ、その差異や不可能性をいとおしく思えて初めて本物だと思う。


 似ている、同じような好み。同一性を愛で過ぎると、心はふとした差異性に耐えられない。


 わかりあえない苦しみから脱するために、自己の拡張を試み、相手との同一性を探る。それは結局、差異を拒否している。強引に、自己を相手に一致させようと無理をしているだけだ。
 それを努力と呼んでしまうと、どうしてこんなにあなたのために努力しているのにわかってくれないのかと、考えてしまう。
 その努力がそもそも初めから間違っているのに。


 それでもやはり、ある程度は重なる部分を持っているひとを求めてしまう。人間関係は難しい。過去を振り返りながら思う。