生と死と愛をめぐる魂の彷徨

 福永武彦 『死の島』上・下(講談社文芸文庫


 途轍もない小説を読んだ。何から言葉にしようかと考えながら、渦巻いている読後の余韻の正体が、果たしてどういった種類の感情なのかを確かめるように、上巻のページを初めからめくり、最初に読んだときとはまったく別の発見があって驚く。一度読んだだけでは足りないと思う。ほぼ一か月かけて上下巻を読み終えたにもかかわらず、もう一度初めから読んでもいいとすら思える。いつしか本を読んでいた自分は消え去り、本に読まれている自分がそこにいる。虚無と対面し、それに生を奪われる作中の描写のごとく、文章を目で追いながらそこに重ねた自分の内面が、コップの水を傾けたように、本の中に注がれてしまった。心、いや、魂をわしづかみされるというのはまさに、こういうことを言うのかもしれないと思う。


 これは、出版社で編集者として働く二十代半ばの相馬鼎が、清楚で奥ゆかしい相見綾子と、広島での被爆で心身に深い傷を負った芸術家の萌木素子という二人の女性に惹かれていく物語である。どちらにも惹かれながら、どちらのほうを強く自分が愛しているのかを決めることができない。自分の中にあるはずの本質的な部分が、いったい何を求めているのか、小説の可能性を探ることと、自分自身の本質を見極めることを目的として、相馬鼎は「小説」を書く。そんな彼のもとに、二人が広島で心中を図ったという知らせが届く。彼は夜行列車に乗り込み、二十四時間をかけて東京から広島に向かう。
 相馬鼎と二人の女性の関わりを、彼が広島へと向かう、たった一日の出来事の中に凝縮させて結実させたのがこの小説である。


 現在は現在としてゆっくりと進み、その現在を形作るため、相馬鼎と相見綾子、萌木素子の出会いと、彼女たちとの交流が語られる。何が彼女たちを広島へ向かわせたのか、直截的な原因がどこにあったのか、過去を一つずつひもとくことで、少しずつあらわになっていき、そしてそこに、相馬鼎自身がおのれの本質をつきとめようと書いた「小説」が、劇中劇として重ねられる。


 二人の女性の安否と、彼女たちを死へと向かわせたのがいったい何であったのか、読み手はもどかしい思いを焦がしながら、相馬鼎の葛藤に身を委ねざるをえない。健康的な生を大切に思い、しかし死への憧憬も捨てきれない彼の心の揺らぎが、人間の存在そのものについて、あるいは愛や魂についての本質を描き出していく。


 描写は巧みで緻密である。ぎっしりと文字で埋め尽くされたページだが、読みにくさはしだいに感じなくなる。一瞬の出来事が、丹念どころか執拗に描かれているのに、読みにくさはない。福永武彦の筆力の高さに、唸るほかなかった。
 意識の動きの観察がいかに鋭かったかが理解できる。視線を向け、思考し、行為に移るという流れに、一切の不自然さはなく、文と文のつながりに、淀みがない。比喩は美しく、克明な描写がいとおしさもかなしみも恐怖もすべて、鮮烈に伝えてくる。


 魂とは、日常からおよそ縁遠い言葉ではあるけれど、おぼろげながら、その輪郭の一端が見えたような気がした。生への執着と、死への憧れの狭間に揺れ、愛の行き場を求めて彷徨する相馬鼎の双眸から眺める、凄惨な「死の島」の光景。列車を降り、病院へ駆けこんだ彼を待ち受けていた結末を思い返し、始まりも終わりもない時間について考え、序章へと立ち戻る。文学が扱いうるテーマを結晶化させ、人間の本質に触れ、魂の存在すら証明しうる作品が、この『死の島』なのだと思う。


 一度「それ」を知った者がそこから離れられないように、読んでしまったらもう二度と、後戻りはできない。