この世でもあの世でもない場所から

 恒川光太郎『白昼夢の森の少女』(角川ホラー文庫
 
 文庫を心待ちにしていた本。一つ読み終えるたびに、それが短篇に似つかわしくないほどの読み応えを感じる作品集だった(いつも思うけれど、「ホラー文庫」というほどホラーではないので、怖そうだからと敬遠するのはもったいない)。
 
 人に貸して、相手が1話読むたびに感想を聞いて共有したいと思うような、そんな1冊である。短篇は短篇であるがゆえに、読んだ瞬間は強いインパクトを残しても、長い時間記憶に残ることは少ない。読んでいてそれがもどかしく、消えてしまう記憶に歯止めをかけるために、これを書いている。そして同時に、それがこれから読む人への妨げにならないように、核心には触れずに書くことを心がけている。だから、なるべく未来の自分が、これらの短篇一つひとつを忘れないために、一文ずつの作品紹介を挟んで、感想を述べたいと思う(あくまで個人的な備忘録の位置づけの意味が強く、本当はこれから読む人には、できるだけ何の先入観もなしに読んでもらいたい)。
 
■古入道きたりて
 人里離れた渓谷で、山をまたいで歩いていくもの。
 
■焼け野原コンティニュー
 すべてが破壊し尽された世界で、死ぬことができない男。
 
■白昼夢の森の少女
 生きた巨大植物に呑み込まれた人々の作る大きな夢。
 
■銀の船
 この世とのつながりをすべて断ち切って手にできる永遠。
 
■海辺の別荘で
 椰子の実から生まれ、流れついた女。
 
■オレンジボール
 毬になった少年と、それを拾った女の子。
 
■傀儡の路地
 すべては人形の囁くままに。
 
■平成最後のおとしあな
 閉じ込められた先に聞こえてくる、時代の変わり目の声。
 
■布団窟
 夢と現の狭間、布団の闇に呑み込まれる。
 
■夕闇地蔵
 命の炎が見える地蔵と、空をうねる雨蛇さま。
 
■ある春の目隠し
 深夜の廃校で不意に告げられる、人間の真理。
 
 
 姿形を変え、すべての作品に登場する、この世ならざるものの存在。
 恒川作品の美しいのは、それらがいずれも現実と地続きのところに存在していると思わせることにある。現実と夢と、現世とあの世と、実感と空想と。そのあわいは溶け出し、にじみ、ぼやけていく。無駄の削ぎ落された文章は、視覚的に、映像的にその世界を提示する。ありえない物事に接して戸惑い、拒みながらも、受け入れざるをえないという登場人物の状況に、読み手もまた立たされる。それは現に、作品という世界の中で確かに起こっている出来事なのだと突きつけられ、読み手はそれを受け入れるほかない。そして、受け入れたが最後、そこにあったはずの現実と作品という境界が薄れ、やがてなくなっていく。
 読み手が作品に没入するのではない、作品が読み手に入り込んでくるような心地がするのだ。作者の生きた想像力で綴られた文章が、読み手の想像力と呼応する。そうして開かれたこの世ならざるものたちの世界。そこから響いてくる呼び声は、異様でありながらもどうしようもなく魅力的である。ページをめくり出すと引き返せない。
 
 そんなふうに作品に引きずり込まれるようにして読み終えたとき、本が、ページが物理的に有限であることに安堵する。
 物語が、始まりと終わりを持つものであることにほっとするのである。その世界に終わりがなかったら、帰ってこられなかったかもしれない。そんなことを思って微かな恐怖感を抱きながら、一方で、もっとそこにいたかったと思う自分にも気づく。響いてくる余韻は知らず知らずのうちに自明の現実世界の枠にひびを入れ、軋みを上げている。音もなく聞こえるその軋みが一体どこからなのかと耳をそばだててもそこは自分の部屋で、その出所が自分の内側であることに思い至る。読み終えた作品は、すでに自分の一部となっている。
 
 本を読むのではなく、本に読まれるのだというような転倒。人間が世界を生きているのではなく、人間は世界に生かされているのだという再認識。あの世から見ればこちらの世界こそあの世であり、誰かの声だと思ったらそれは自分自身の声だったりする。何の疑いもなく存在していると思っていた世界が、シンプルにひっくり返されるとき、どちらが本当かなど、些細なことでしかないように思える。
 
 そしてこの記事を書きながら、小説を読んで感想を書いているのではなく、小説に感想を書かされているようにも思え、その意志が誰のもので、いったいどこから来ているのか、その源流を突き止めることができずに、奇妙な浮遊感のなかにいる。
 あなたが読んでいるのが本の感想なのかどうか、それを保証してくれるものなどいない。気づいたらあなたはこの小説を読もうと思い、書店に行っているかもしれない。そのとき、これは果たしてあなた自身の意志なのかどうかなんて、野暮なことは考えずに、導かれるままに読むことを薦める。きっと後悔はしないはずだ。