ことのはざくらを仰ぎみる

 暖房をつけなければ凍え死んでしまうほど寒いわけではないけれど、ある程度着込まなければ眠りにつくには肌寒い。冬の名残は消えかけていくのに、春が来ているとも断言できないようなはっきりしない感じは、まるでどこかの国の首相のようで。
 とは言いながらも、はっきりしないのは気候だけのことではなく、数ヶ月後の自分の姿でもあって、散った桜が積もっていくように、穏やかではいられない思いも積もりゆく。今はなるべくそれに目をあてないよう、葉桜を見上げて過ごす日々。踏みしめなければならない地面を遮るように小説を開き、紙片から溢れる言葉のきらめきで現実を覆う。


 多和田葉子さんのエッセイ、『カタコトのうわごと』(青土社)を昨日読み終えた。あまりに素敵だったのですぐさま友人に貸したため現在手元になく、思い出しながら感想を述べようと思う。


 大学卒業と同時に日本を離れ、かかとの磨り減った靴でドイツの大地を踏んだ著者は、日本語から遠ざかり、ドイツ語にもなじみ切らない時間の中に身を置いたことで、自身の内面における言葉の死を経験する。
 日本語でもドイツ語でも、ものを考えなかった時期があったと語られており、言葉なしに行った思索の軌跡が、そこに垣間見えた。
 著者は言葉の壁を越えたのではなく、言葉の壁を崩壊させたのだと言える。そこにもはや目に見える国境はない。のちに著者の中に再構築されていった言葉は、純粋な意味を求めて熱を帯び、読み手に表れてくる。


 彼女の小説が難解だと言われる理由がわかったように思えた。「美しい日本語」とか「みずみずしい感性」とかいう胡散臭い言葉から遥か遠いところで、異なる言語のあいだにある、言語化されていない意味の可能性をさがして、彼女は文章を書き続けているのだと思う。


 ドイツ語で「言葉」は「Wort」。Wortの中にある「Ort」は「場所」を意味する。日本語の「言葉」に「葉」が含まれていることを一緒に考えていたら、言の葉が揺れる樹木のような場所がおのずとイメージされる。季節のはざまを揺れる葉桜を見上げながら、自分もしっかりとした一本の樹となれればと強く思い、また新たに別の本のページをめくって夜を過ごしている。