不必要な誠意

 今年に入ってから、「また声かけますね」「また行きましょう」「また連絡しますね」と言われて向こうから連絡がきたためしがないので、日本語の「また」には「二度と~ない」という用法ができたのではないかと思い始めた。 今年だけでたびたびそれを味わっていて、誰を責めることもできず、ただひたすら自己嫌悪に陥っている。信じ続けていたい人も含めて、そろそろ人間を信用できなくなっている。
 
 でももう何度目だろうか。
 考えたくないのに、「この人もきっと離れていくんだろうな」という思いがよぎる。もう傷つくのが怖い。
 
 「また」。それは約束でも何でもなく、無関心が形作るたやすい永遠で、愚直に信じて待つことできっと、自分の一生が終わっていく。
 期待しすぎると、裏切られたときに傷つく。だからといって、初めから何も信用しないというスタンスを取りたくはない。人間関係の基本は、きちんと自分が相手を信じることから始まる。無言のその意思表示を尊重するならば、こちらにできることはただ、沈黙を守って忘れようと努めることだけだろう。
 
 初めから、そこには何もなかった。跡形もなく消えてしまえば、何かがあったことを確かめることもできない。痛む心には気のせいだと言い聞かせて、勝手に傷ついているふりをしているだけでしょうと突き放して、後ろ向きなそぶりは一切表に出さないで、普段通りの明るさで、いつもと同じように日々を送る。それが職責だから、仕事をする自分を待っている人がいるからと、叱咤するようにして家を出る。仕事をしていなければ、誰に求められるわけでもない自分がそこにいることを忘れるために家を出る。
 
 消えてしまうのが怖くて言葉を発したとき、それが単なるしつこさの表れになって、余計に遠ざかっていく未来がよぎるから何も言えない。待つ側に立たされた時点で、結果は決まっていたのかもしれないとすら思う。
 
「自分から動かなければ変わらない」と、きれいごとのような言葉が差し出されて、動き続けた結果がこれで。
「気にしても仕方ないから次へ」と無責任に背中を押されてはまた傷ついて。
「どうして自分だけ」と無意味に他人と比べて絶望して。
 
 自分で自分の頑張りを認めることもできずに、ただ、みっともないなと思う。そんな自分でいたいなどと思ったことはないはずで、誇れるもの、自信のあることも持っているのに。自分に期待する人のために、必死で日々仕事しているのに。
 仕事を頑張って、そこで支持や信頼を得られても、言葉を磨いても、撮影技術を磨いても、知識を深めても、身体を鍛えても、生活を整えても、誰かのために何かができるようにと願っても、誰もそんなことを望んでいないようにすら、思えてくる。
 
 きっとこんなことを書くと余計に、人は離れていくのかもしれない。
 ただもう、書こうが書くまいが同じにも思えている。
 
 上辺だけの励ましをもらってもどうにもならないので、誰かに言えるわけでもない。
 誰かに言えないから、ここに書くことしかできない。
 
 さみしさを紛らす手段は身についたのかもしれないけれど、期待を裏切られて傷つくことには、全然慣れることができないでいる。
 
 さすがに続きすぎて、もう何もかも嫌になってきた。
 
 
 怒りと妬みと僻みとさみしさと悲しみと情けなさを、孤独が貫いていく。
 
 誠意を持って、自分にできることを尽くしたいと思っても、それを望んでくれる人間がいないなら、誰に対しても何もできない。
 
 自分のやっていること、やろうとしていることは何もかも余計なお世話で、受け入れられることなくただそっと、ひとは離れていく。
 
 
 そんなことないと否定できるあなたは、去らずにそこにいてくれるのですか?
 
 
 聞こえてくるのは永遠にやって来ない「また」と、あるはずもない「機会があれば」で。一度や二度でないそれを、笑顔で受け止めるたび、心の奥で泣いている。
 
 傷つくたびに思うのは、そんなふうに誰かを傷つけない人間でありたいということ。傷ついた分だけ、優しくできる人間でありたいということ。そんな優しさを捧げる準備をしていても、望んでそれを受け入れるひとはいないのだと、もうずっと思い知らされ続けている。
 
 誰のためにもならない写真を撮り、何の意味もなさない言葉を綴りながら、自分はこれからも生きていくのだろう。
 
 
 そんなことないと否定できるあなたは、去らずにそこにいてくれるのですか?