遡上を堰き止めるための何か

 このブログには約13年分の自分が詰まっており、公開している記事については、紛れもなくそのとき考えていたことが様々な形で書かれている。読んではいけないものはおそらくないのだけれど、ときどき過去の記事を読み返して、果たしてこれは読んで面白いのだろうかと思ってしまう瞬間がある。仕事でつらかった時期の文章を読み返すことは古傷のかさぶたをひっかくようなものなので、あまり自分では読み返したくない。さらに古いものだと大学時代、就職活動中の奮闘記や読書記録などもあり、今の自分なら書かないような言い回しや考えの浅さが目について、読むに堪えないと思ってしまう。そのせいで、公開して本当に問題はないのかとチェックをしようにも、長時間読み続けるのがしんどくなってしまい、ろくに読み返すこともできないでいる。
 
 ではなぜ公開しているのかといえば、もちろん新しい記事や読書記録については他者に読んでもらって楽しんでもらいたいし、絶版となった本の価値をきちんと広めていく一助になりたい気持ちもあるから、というのが最初の理由である。そして、さかのぼって読んでくれる人は、どういう形であれ自分自身に興味や関心を持ってくれている人なので、その人にもこんな文章でよければ楽しんでください、という気持ちもあるからだ。たまに、面白半分で他人の過去をのぞき見すような読み方をする人がいるかもしれないとは思いながら、それでもかなりの量の記事を書いてきたので、どんな目的であれ、その量を順に読み返すのは並大抵のことではない。だから、わざわざ貴重な時間を割いて、過去の記事をさかのぼって読んでくださるなんて、いったいどれほど素敵な読者なのかという気持ちになる。
 
 誰にともなく書く、というスタンスはずっと変わっていない。ただ、書いてきたことを書いてきたままに、蔑むことも過剰な評価をすることもなく、まっすぐに読んでくださる方がいれば、それは本当に幸せなことである。
 
 今回のこの記事はいつもと違って特に内容のない文章ではあるが、書いた目的はただ一つ。古い記事へのさかのぼりを、少しでも遅らせるために他ならない。
 読んでくださる方に報告を強いるなんてことはできるはずもないが、もし突然、「2010年ごろの記事読みましたよ!」と笑顔で言われでもしたら、えっちょっと待ってどれ?と謎の焦りを覚えることは間違いなくて、そこにささやかな恐怖を感じるのである。記事を非公開にするつもりはないとはいえ、そのときのことを知りたかったら直接話すので、話を聞いたうえで記事を読んでもらえませんか、というよくわからない要求をしそうになる。いや、「読みましたよ!」と言われるならまだいい。言われずに、過去の記事をきちんと読んだうえで、意味深に微笑まれた場合、もしやこの人、読んだのか……? という疑心暗鬼に駆られるのは必至であろう。自分の側の過去だけが明らかになっているのはフェアじゃない、と公開しているくせに思ってしまう(でも非公開にする気はない)。
 
 と、文字数を重ねたところで締めくくりたい。一応、この記事の役割は果たせるだろうか。
「公開はしてるけど読まれるのは結構恥ずかしいので、もし読んでしまったら言ってください」というわけのわからないメッセージを、ただ言いたいだけという記事である。でも本当に、過去の記事を読む読まないにかかわらず、読んでくださっている方には感謝しかないです。いつもありがとうございます。