鉄道文学の車窓から

 電車を扱った小説は数多くて、その名作の多さには驚かされる。自分の読んだもので言えば、タイトルに「鉄道」が入る宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のほかに、有名すぎる冒頭に加えて車窓からの描写が美しい川端康成の『雪国』、焦燥に駆られながら列車内で回想と作中を往復する主人公が描かれる福永武彦の『死の島』、深い山をまるで人間の体内のように描いた多和田葉子の『ゴットハルト鉄道』、ミステリではアガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』、有栖川有栖の『マレー鉄道の謎』、伊坂幸太郎の『マリアビートル』、アニメ映画なら新海誠の『秒速5センチメートル』の「桜花抄」など、枚挙にいとまがない。
 ただそんな中で、舞台が初めから終わりまでのほとんどを車内で過ごす短篇に、とりわけ好きな2篇がある。
 
 一つは、芥川龍之介の「蜜柑」(1919)、もう一つは、佐多稲子の「三等車」(1954)である。いずれもプラットホームから始まって、語り手を乗せた列車がすぐに動き始める。
 
 芥川の「蜜柑」は、「疲労と倦怠」を背負った「私」が、憂鬱なまま汽車に乗り込むところから始まる。気分が晴れないまま車窓に吹きつける煤煙に包まれて、汽車は重苦しい空気の漂う隧道に差しかかる。一緒に乗り合わせた少女が、あろうことか隧道内で窓を開けたので、「私」の暗澹たる気分がより一層沈むのだが、隧道を通り抜けた途端、その少女が車窓から勢いよく蜜柑をばら撒く瞬間に、暗雲が吹き飛ぶような鮮やかさが立ち上がる。奉公先に向かう少女を見送りに来た弟たちのもとへ、夕陽の差す空から舞い降りる蜜柑のまばゆさは、前半の重苦しさゆえに輝かしいほどである。「私」に「退屈な人生を僅に忘れ」させるほどの光景がその刹那に展開され、読者は文字のみを読んでいることを忘れさせられる。梶井基次郎の「檸檬」も眩しいが、芥川龍之介の「蜜柑」は、梶井の描く主人公とは異なった方法で、不吉な塊を消し去ってくれるもののような気がする。
 
 一方、佐多稲子の「三等車」は、混雑する列車に揺られる「私」が、二人の子どもを連れて帰省する母親と、同じ車両に乗り合わせた人々との交流を見つめる短篇である(2016年度のセンター試験にも出題され、もしかしたら佐多稲子の小説で現在最も有名になっているのかもしれない一篇とも言えよう)。
 働くために残る父親と、子どもたちを食べさせるために実家に帰る母親。三歳くらいの男の子を連れ、背中に泣きじゃくる赤子を背負い、見送る夫と揉めたあと、ようやく一息ついた車内で、乗客たちとの会話が始まる。その会話に耳を傾け、彼らを見つめながら、「私」は一人残された夫に思いを馳せ、車窓から流れ去る景色を眺める男の子が無意識につぶやく「父ちゃん来い」の言葉から、その家族を思う。
 ざわつく車内の様子、乗客の視線、慌ただしいその光景が、一つひとつ丁寧に描かれた、見事な短篇である。芥川の「蜜柑」における「私」とは異なり、語り手自身の心情が大きく変わることはなく(座ったときの安堵感くらいか)、発車してからは自身の内面は省みず、目の前にいる少年と母親を見つめ、目の前にいないその父親の双方を思慮する「私」の繊細な眼差しがとても好ましい。作品発表当時の空気がそこに流れているような感じがして、一つの短篇から一つの時代が見えるような思いになる。
 
 「三等車」の最後に少年が眺める景色に「みかんの木」が立っているのが、何とも言えない偶然のつながりを見つけたようで嬉しいのだけれど、両者に直接の関連があるわけではない。ただ、どうして自分がこれらの作品を好きなのだろうと考えていたら、なんとなくまとめたくなってしまった。
 
 自分でも、電車の中だけで完結する小説や、電車による移動が少なからず意味を持つような作品を書いてみたことがあって、どうにも離れがたいモチーフのようではある。何より電車での旅が好きだというのも一因している気もする。
 
 そこにあるのは移動による動的な時間の変化と、車内に停滞し、到着を待つ静的な時間の流れである。A地点からB地点へと、電車が目的地に近づくにつれ経過する時間のうち、乗客はじっとその座席に座り続けていることになる。至極当然だが、これがどちらか一方でも欠けると作品は成立しない(電車移動ができない)。「静止したまま動き続ける」という矛盾をいとも簡単につくり上げてしまうのが電車という空間で、その構造の中にはさらに、車内と車外や乗っている自分と他者の構造を重ねることもできる。
 
 また、決められた目的地へ続くレール、必ず始まりと終わりのある線分は、永遠を持たない小説(物語)という形式との親和性が高く、終着駅につくことが物語の終焉と重なり合うことで、つねに目的に向かい続けている安心感を読み手に抱かせることができる。
 
 もっと言えば、電車の窓から世界を見るという行為は、「車内という世界の外側」から「車外という世界の内側」を覗く行為と言い換えることもでき、その瞬間、作品における世界の内外は転倒する。
 したがって、電車という閉鎖的な空間は、ものを考える人間と、その人間を包む世界のありようをそこに映し出すことで、日常でありながらも非日常的な経験へと開かれているのだ。人間を乗せ、動き出すだけで、世界をひっくり返すことのできる乗り物はそうそうなく、それがあまりにも人間の日常にしみついてしまっているがゆえに、魅力を感じずにはいられないのである。