読書遍歴④ 2008年 ~神様降臨~

 中学時代からの読書遍歴を書こうとして、19歳の2007年まで書いて、そろそろ続き書かないとなと思っていたらなんと1年以上経っていた。あれがもう去年(正確には1年と2ヶ月前)なんてそんなはずはないのだけれど、記事がそうなっているのだから実際にそうで、信じる信じないの次元ではなく動かざる事実なので、これを読もうとしている方には、「誠にお手数なのですが」と断りを入れつつ昨年の記事に戻っていただくほかない。
 
 なぜ書こうとして書けなかったか。非常に言い訳じみているが、これだけの期間があって書かなかったというのは、たぶん「書かなかった」のではなく「書けなかった」というのが正しいのだろう。理由はわかっていて、その2008年が、そしてそこから2010年という大学時代の残り3年分が、人生で最も本を読んだ期間だからなのだと思う。
 
 現在まで連なる影響を受けている作家が数多く、時系列に書き記すことが難しいので、どうしても書き方を変えて、作家ごとに書かざるを得ない。そう割り切って、以下に綴っていこうと思う。
 
 何よりも、川上弘美さんの出現が、自分にとって大きな衝撃をもたらした。出現というのは語弊でしかなく、それまでも長く執筆されている方だし(芥川賞を受賞されている、日本を代表する作家である)、読むのも実は初めてではなかったのだけれど、短篇集『神様』を友人とともに読んだことは、今なお忘れがたい経験である。
 
「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである」
 
 言わずと知れた表題作「神様」の書き出しである。ツッコミどころしかない一文で世界が開かれ、読者は戸惑う間もなく川原に連れていかれる。一つひとつに驚いていたら身が持たないので、その小説に描かれる主人公のように、「はあ」とか「なるほど」とか「そうなんですね」と相づちを打ちながら、物語に身をゆだねるほかない。その、否定ではない受容の姿勢に、この世界のよくわからなさや不条理さをそのまま許容するおおらかさが見え、受け入れたからこそ見えてくるものの面白さに気づかされるのである。
 
 とはいえ、それをそれとして受け入れるために、きちんと丁寧に、そこに描かれていることを思い浮かべると、どうしようもなく可笑しい。雄の成熟したくまが、律儀に大人の女性を散歩に誘っており、川原でそのくまを見た子どもは嬉しそうにはしゃいでいるのだから。
 
「文学は高尚なもので、真面目に書かれたものだから、真面目に読まなければいけない」という固定観念が、音を立てて崩れていくようだった。誤解を恐れずに言えば、「こんなもの真面目に読める代物ではない(ぐらい面白い)」。書いている本人がどんな顔をしているかわからないにせよ、そのシュールな物語を、真面目に書いている人間がいることもまた面白いではないか。
 もちろん、そこに登場する「くま」が何らかの比喩であり、淡々と描かれる日常に潜ませた「書き手の意図」みたいなものを読み取ろうと一生懸命に読み味わうこともできるだろうが、そんな難しい顔をしている場合ではなく、そこには堂々とした「くま」がいるのである。「どうしてくまがしゃべるのかって? そんなことどうだっていいじゃないですか」と言わんばかりに、説明のされない物語を、そこにありのままに書かれた物事を、ありのままに受け止めてみることが、何よりも楽しい読書体験になる。
 
 と、気がついたら短篇「神様」だけでこれだけの文章量になってしまう。わかってはいたけれど、読み手の姿勢や考え方を、たったあれだけの文章量でこれほどまでに変えてしまう川上さんはやっぱりものすごい。
 
 会う人会う人に、『神様』は薦めているし、表題作以外にも、「夏休み」や「クリスマス」は、その平凡なタイトルからは想像もつかないシュールさを誇り、短いながらも絶大なインパクトを読み手に残すであろう。
 
 昔、そんなふうに語ったとき、「小説ってそんなふうに笑えるものなんですね。そういう読み方したことなくてよくわからないんですが」と誰かに言われたことがあったのを思い出す。それが誰で、どんなふうに返したのだったかよく思い出せないのだけれど、『神様』を読んで笑える人とは仲良くできる確信があるくらい、これもまた自分にとって大切な小説なのは間違いない。
 
 川上弘美さんについては、青土社ユリイカから出ている「川上弘美読本」も持っている。これもまた本当に面白い。2010年に、大学に講演(というか対談)に来られたこともあって(過去の記事にもその日のことは書いた)、素敵だった。
 
 2008年は川上さんを皮切りにいろいろと読んで、ほかにも大切な作家さんがいらっしゃるのだけれど、文字数的に今日はここまでにしたいと思う(案の定、全員はとても書けなかった……)。最近はめっきり読めていないので、久しぶりに読みたいなと思いながら。