読書以外のこと

 自宅のPCを買い替えた記念にというか、まともにキーボードが打てるようになったことを祝して、日記らしい日記めいた文章を綴ることにする。わりと長い間、エンターとデリートが利かない状態で過ごしていて、もうそろそろ買い替えるのに十分な時間は使っただろうと判断した(実際バッテリーの寿命も近かったし、ちょうどセキュリティソフトの使用期限も迫っていた)ので、購入に至った。それまでは仕事で使っているサブPCで更新していて、こっちはこっちで使いやすいので不便ではなかったのだけれど、鞄からの出し入れの手間は、小さいようで大きく、更新頻度が結果として激減してしまった。とりあえずこれを機に、キーボードで文字を打って何かを発信することが増えるかとは思う。

 

 と、書いてはみたものの、本音を言えば、読んでくださる方がいらっしゃるなら、何か書かねばと思った次第。スマホで文字を打つのに慣れてしまったせいか、ツイート一つ分くらいの文字数なら、別にキーボードで打つまでもないとあまりに思いすぎて、まとまった文章を書く意欲も薄れてきていた気がする。Twitterでは、思って綴ったことはなんとなく人目に触れながらとりとめなく流れていってしまうし、そうなったとしても別にそれでいいかと思って、それなりのことを書いて何かを満たそうとしていたのは否めない。長く思考して書いた文章も、数十秒であっという間に流れる、そういう環境に慣れすぎて、じっと自分の文章に向き合う時間が減っていた。

 手元で文字を打つ間にも、TLは流れていくし、自分が文面を悩んでいる間に、読んでくれるひとたちが寝てしまうかもしれないなどと、よくわからない焦りを覚えながら何かを書くという行為は、えてして気忙しい。こういう当然に思えることでも、文章にしてみるということがずいぶんなくなっていたと、書きながら思う。

 昔は書くことがなくてもこうしてブログを開いて、思いつくままにそれを綴っていた。言語化による客観視は、頭の中だけで思いをたどるよりずっと、心が落ち着いていくのを感じる。考えたことを文字に起こす感覚と、文章が生まれ、連なっていくのを眺める悦びが、自分の中にあったのを思い出すように書いている。曖昧な想念を具体的な言葉に落とし込み、選んでは並べ、並べたものを抽象化したり、削ったりと、思考は言葉と言葉の間を駆け巡り、具体と抽象の間隙に橋を架ける。橋の上から見下ろすのは、流れていく自分の思いで、同じようなものが繰り返されながら、それでもそこには遠い海を目指そうとする意志の断片が浮いたり沈んだりしている。

 

 本がなかなか読めない日々を過ごさざるをえないので、読んだ本の感想を綴れないのがもどかしいけれど、それだけが日記でもないなと改めて思った。心を静め、落ち着けるために、ゆっくりと一息つく場所として、スタンスとしては誰にともなく、今後も綴っていけたらと思う。