まるい鏡が映すもの

 偶然のめぐり合わせで出会った人が、どこか遠く、忘れてしまった記憶の彼方で出会っている人だったらと、現実と物語のあいだをたゆたうように本を閉じる。それが幻想でも妄想でも、そんなふうに現実を意味づけられたら、少しは強く生きられそうな気もする。そして、この本をもしも、学生時代に読んでいたら、没頭するように作品を読みふけっただろうなとも思う。
 
 辻村深月かがみの孤城 上・下』(ポプラ文庫)を読み終えた。
 
 今さら、という感じはあるけれど、今読めてよかったと思っている。身近に読んでいる人がいたことが手に取ったきっかけだが、作者の辻村さんの「辻」が、綾辻行人さんから来ていること、それぐらい辻村さん自身が綾辻さんの作品に影響を受けているということ。ウィキペディアを開くまで知らなかったのだけれど、それを言われたらすぐに読んだのに、と思ってしまった。
 
 すでに売れているうえに本屋大賞にもなっているので、かえって手に取りにくかったが、綾辻さんの作品をほぼすべて読んだ今、前述の情報を知ったとなれば読まないわけにはいかない。予想通りの読みやすさで、ほとんど一気に読んでしまった。そして面白かった。
 
 
 ある事情から学校に通えなくなった中学1年生の安西こころに、自室の鏡が呼びかける。鏡の向こうに待ち構える城と、同じように呼びかけられ、集められた6人の子どもたち、そして狼の仮面をかぶった少女。そこは、願いを叶える鍵を探すための場所――。
 ファンタジーの様式美を入口にしながら読み手を引き込み、厳しい現実世界と、鏡の中の世界との往復の中で明かされていく謎の数々。
 
 集められた7人のそれぞれの境遇が明かされながら、張り巡らされた横糸をたどっていくうちに気づかされる、縦糸の存在。伏線はわかりやすいほうだとはいえ、ある程度の予想はできていても、その緻密な構成に膝を打つ。綾辻行人さんの『時計館の殺人』を読んだときもこんなふうだった気がすると、その衝撃を思い返しつつ、ページをめくる手は止まらなかった。
 
 物語としての美しさと、ミステリとしての巧みさが織りなす作品の完成度に、誰しもが経験する「大人になっていく」ことの違和感や理不尽さと、それに屈しながらも受容し乗り越えようとしていく過程が描かれている。
 
 
 1学年が2クラスしかなかった小学校で6年間を過ごし、中学から3校が集まって1学年7クラスになる環境の変化を、身をもって経験した自分の記憶が甦る。
 自分と相手という一対一の関係性から、どこに属すか、誰と一緒にいるかという集団を介した見られ方をする関係性へ、すんなり移行できる人間と、できない人間がいて、自分は紛れもなく後者だった。あだ名で呼び合っていた友人から、自分の苗字を呼び捨てにされたとき、他人行儀になっていく友人との距離感を突きつけられ、その一方で、その友人と昔と変わらぬ距離感で関わり続ける友人もいて、「人を選ぶ」という残酷さの前にどうすることもできなかったことを思い出す。6年間で築き上げたはずの関係が古いものとなっていくことについて、人はそんなふうにして変わっていくのだなと今なら思うけれど、当時は自分も新しい関係の中にいて、多少は傷つきながらも何とか闘って、生きてきたのだったと思い至る。物語が鏡になって、読んでいた自分の記憶を映し出したようにも思えた。
 
 そんな、ずいぶん昔に忘れていた傷のことを思い返し、幻のようなわずかな痛みを感じる一方で、そこに温かな救いがあてがわれた心地よさを伴って、小説は幕を閉じる。表紙に描かれた円い姿見のように、物語が描き切ったその円環を思う。少し美しすぎる気もするけれど、物語なのだから、それぐらいでいいのかもしれない。鏡は現在の自分を、そしてこれからの自分を映している。
 
 名作の確かな安心感とともに、冬の劇場アニメ映画化が気になり始めた。