わずか一点の綻びから

 長い歳月をかけて緻密かつ繊細に作り上げられた完成品が、一瞬にして崩れ去る瞬間というのは、儚いながらも名状しがたい美しさを放つ。それは打ち上げ花火が夜空に開花する瞬間や、桜が散りゆく瞬間に代表されるような、日本的な美の性質と言えるのかもしれない。そういった美の有様を、推理小説にも見出せると思ってしまうのは偏見だろうか。
 
 昨年、『黒いトランク』を読んで以来、鮎川哲也(1919~2002)のミステリを継続的に読んでいる。絶版になっているものも多いなかで、『りら荘事件』、『白の恐怖』、『憎悪の化石』、『風の証言』、『翳ある墓標』、『五つの時計』、『黒い蹉跌』を読み終え、次は『白い陥穽』を読むつもりでいる。
 
 作者のその活動期間から明らかな通り、作品の舞台となる時代は1950年~70年代で、そこには当然、スマートフォンはおろかガラケーもPCもない。位置情報や乗換案内のないなかで緻密に組み上げられる鉄壁のアリバイが、わずかな一点の綻びから崩れ去る瞬間というのは、不可逆的な一回性の美をそこに見出すのに十分な条件を備えていると言っていい。
 時刻表の空隙の発見、現像された写真と些細な天候状況の齟齬などによって、完全犯罪の成立が阻まれ、真犯人が明らかにされる。その過程に描かれる、足を使った地道な聞き込み捜査や現場検証が、真相解明の瞬間の快さをよりいっそう後押しして、気づけば癖になっているのである(さらに言えば、吹雪の山荘や死体の傍に置かれたトランプなど、屈指のベタ展開も魅力の一つであろう)。
 
 そんな鮎川作品を、前時代的だから、インターネットがある現代ではありえないからと、過去の遺物として追いやるのはあまりにも惜しい、と絶版の多い状況を憂えている。
 
 今や多くの世代の人々にとって、ネットのない時代というのは、回想可能な過去ではなく、想像することしかできない昔のことだ。たとえ当時を知っていたとしても、「あるのが当たり前」になってしまった現代人が、「ないのが当たり前」だった過去を、当時の人間と同じようには思い描けない。
 推理小説は、推理小説だからこそ、リアリティを伴った論理性や客観性が必要とされる。その現実性の枠の中に築かれた物語は、実感を伴った過去として、その時代を映してわれわれに見せてくれる。
 
 過去は時間とともに史実となり、実感が削ぎ落とされた知識になっていくけれど、確かな温度や想像可能な実感をもたらしてくれる作品の貴重さに、目を向けていたいと思う。それは決して、「あの頃はよかった」と考えることとは違う。自分自身も含め、同世代やあるいはそれ以下の世代にとって、鮎川哲也作品に描かれる時代は、「あの頃」ではなく「ぎりぎり回想できない昔」なのだ。両親や学校の先生など、上の世代から聞かされることはあっても、経験はしていない時代の空気が、そこに流れている。作品の細部に垣間見える人間の振る舞いや価値観の違いが、現代を見る目を相対化するはずである。
 後戻りのできない過去であっても、「そんな時代があった」ことに思いを馳せることは、この現実の生きがたい唯一性を、ひとときでも忘れさせてくれるきっかけになる。それもまた、娯楽としての推理小説の役割の一つではないだろうか。
 
 この記事をノートに下書きする際、手書きの心地よさを覚えながら、ふと、それはあくまでも、キーボードやフリック入力の対比として感じる心地よさなのだろうと気づく瞬間があった。「書く」という行為の形式が多様化した今、手書きに感じる心地よさは、純粋に「書く」ことをしていた人々の実感とはきっと別のものなのだ。
 そのときを知っているからこそ描き出せる実感や、生活しているうえで感じる機微を、形に残す価値について、改めて考えている。「現代」しか知らない人が「当時」から今を見つめ直す契機は、こうして何気なく綴った文章のなかにあるのかもしれない。それはどこか、完璧に思われたアリバイが崩れ、靄がかかった真相が見えてくる瞬間にも似ているような、そんな気がするのである。