堆積する揺らぎ

 年齢は「重ねる」「召す」と言う。土砂や泥が積み重なって地層が現れるとすれば、経験が堆積してできる年齢はどのような地層で現れるのか。時間を身にまとうことはできないけれど、外見も内面も、生成と破壊をつねに繰り返しながらそこにあって、絶えざる運動を便宜的に静止させながら、恣意的な節目を人間はその都度祝ったり祝われたりする。

 

 木や革は、経年変化で味わい深い色や手触りを生む。経年変化とは便利な言葉だが、人間においては老化と言い換えることもできてしまう。加齢による不可逆的な変化を憂うほどの年齢でもないけれど、一つ増えることの祝福ではなく、祝福されることそのものに悦びが見出される。変わらずそこにいられること、平穏無事に生きていること、そしてその事実を祝福されうること。その一つひとつが素直に嬉しい。

 

 マースルバーチの木は、バクテリアから身を守った跡が、黒い杢になって現れる。
 プエブロレザーについていく細かな傷は、時間とともに艶になる。
 これらもまた、時間による刻印が目に見える形で発現する好例で、その一つひとつが味わいになる。

 

 自分自身のことは自分では見えないが、人は鏡だとも言われる。自分自身の変化より、周囲の変化から感じ取れるもののほうが、より真実味を帯びて感じられる。思わぬ人から思わぬ言葉が贈られて驚いてしまうのは、不規則な揺れによってできた断層の発現にも似ている。秩序が整ったものよりも、混沌を孕んだもののほうが環境の変化に適応しやすいように、長く生きていくにはきっと、揺らぎを受け入れながら自分の一部としていくことが大切なのかもしれない。

 

 だとすれば、生活リズムを崩すようにして刻む文章も、不規則な生き様の刻印のようで、数年後に味わいを生んでいる可能性があるのだろうか。
 今さら言うまでもないが、とりとめのない思考を重ねた痕跡が文章となり、それが降り積もるようにしてできているのがこのブログである。上から堆積した文章の群れを、地層として横から眺める人たちがどう思うのかはわからないけれど、決して目に見えることのない時間の流れがそこに現れているなら、砂金程度のささやかな意味や価値が生み出せているのかもしれない、とそんなことを思った誕生日だった。