居場所と人脈

 職場での人間関係が広がっている。11年も続けていると、さすがに自分のことを知っている人も増え、仲良くさせていただくことも増える。合う、合わないはもちろんあるけれど、おおむね円満に、楽しく仕事ができている。居心地もよく、やりがいも大きい。


 SNSというか、文章表現というものの性質上、ネガティブな事柄のほうが書きやすく、ポジティブな事柄は書きにくい。
 負の感情の吐露は、共感や同情(あるいは優越感?)を呼ぶが、喜びや幸せは、自慢のように映れば僻みや妬みを生む。人は余裕のないとき、他人の幸福を素直に喜べなくなる。どうして自分はこんなにつらいのにこの人は、と考えてしまう。そこに自分との関係は何もないはずなのに、いたずらに比べて落ち込んでしまう。
 数年ほどそういう思いをしてきて、今はっきりと実感するのは、「余裕のある」状態の視界の広さである。ようやく「自分のことで精一杯」の状態から解放されたという感覚がある。だから、気持ちが外に向き始めている。

 

 今月の上旬、後輩の誕生日にボールペン(カランダッシュ849)をプレゼントした。
 筆記具沼への布教の意味も強かったけれど、日頃お世話になっているので何かしたいなと自然に思っていた。そう思ったとき、人に物を贈るなんて、考えることもないほど必死だったのだと気づいた。あげたものを喜んでもらえたことはもちろん嬉しかったけれど、感謝を伝えられたのも嬉しかった。

 

 ずっと、どうすれば慕われたり、何かしてあげようと思われたりするのだろうと考えていた。人望の厚い人をうらやんでいた。ただ、余裕のある今になって、周りの人たちに何ができるだろうと考え始めた。余裕のある時期がいつまで続くかはわからない。繁忙期は必ず存在するので、自分のことを最優先にする時期はある。だからこそ、できることをできるうちにやっておきたいと思う。

 

 新年度が始まってから、わざわざ会いにきてもらったり、「楽しそうですね」「しゃべって元気出ました」と言われたりすることがたびたびあって、気づけばこんなにもつながりができていたのだなと驚いた。

 

 過去に、仕事外の自分を肯定・承認してもらいたい思いをここに綴ったことがあるけれど、最近は、職場で自分ができることを尽くした結果、それがきちんと評価されたり、その頑張りを称えてもらえたりすることがありがたい。仕事外の自分ではなく、仕事をしている自分のことをわかってほしいと強く思う。仕事外の時間を自身のケアに使って、パフォーマンスを上げることに集中し、結果を出せたことで得られた信頼や厚意、それに報いたいと思う。

 

 もうすぐ連休。人脈は広がったものの、休日は基本的に一人である。職場で関わる人には、仲は良いとはいえプライベートまで誘うのは気が引けるので、あえて誘わないようにしている。仕事外でわりとあちこち出かけている人でも、誘おうとして声をかけると、コロナを理由に断られることは多くて、便利な世の中になったものだと実感する。
 つながりが増えたように思えても、思い上がりや思い込みの可能性は否定できない。建前と本音、社交辞令と本心の見極めというのは難しいものだけれど、できることを一生懸命やる以外にないのだから、割り切るしかないのだろう。


 書くことや読むこと、撮ることはおろそかにせず、身体を休めながら、楽しくさらなる経験を積みたいと思う。