手元から悠久へ

 桜を撮りに行きたい季節になったのに、迎えた休日は雨で、続いていた暖かさも一転して冷え込んでいる。どこに休日がくるか毎年読めない時期なのだけれど、もともと今年は運悪く、平日でなく日曜日が休みとなっていたり、次の休みも土曜日だったりで、撮影は人混みを覚悟しなければならない。桜を撮りたい思いを抱えたまま木軸のペンを眺めていたら、その杢の模様に引き込まれ、あれこれと物事を考えてしまう休日になった。
 
 どこにも行かずにだらけるのも嫌なので、考えたことはブログにしようと更新を決めた。この文章は、工房楔のローズウッド瘤杢のルーチェペンを使って一度手書きしたものを、PCで打ち込んでいる。
 
 大学時代まで、というか筆記具にのめり込む最近まで、手書きはずっと苦手だった。キーボードと手書きの違いについては以前書いたので、今回は手書きを続けていて思ったことについて書いてみたい。
 
 雑記用のノートを購入して早いもので2ヶ月半くらいになる。心なしか、字がきれいになったような気がしている。急いで書いた文字のバランスは良くないけれど、何かを考えながらペンを動かすとき、それなりに読める字が書けるようになってきたのではと思う。
 
 人に「きれいな字ですね」とか、「その字が好きです」とか言われてみたい。美しい文字でなくても、手書きの文字に表れる人格めいたものは、少しでも見栄えの良いものでありたいと思う。そんなことを思って、「物理的に」書くことが生きることになりつつあるのを感じた。
 
 他方、文章を創作するという意味での書くことについては、自信を失い始めている現状がある。
 というか、単純に余裕がなくなっている。ゼロから虚構を創造する営みの尊さを思いながら、今の自分があまりにも、自分自身の実人生を生きるのに必死なのである。
 
 仕事に追われているわけではないが、体調を崩すのが怖くて無理ができず、むしろいかに健やかでいられるか、心身の調子を万全に保つかに、意識を向け続けている。体調が良くないまま、パフォーマンスを十分に発揮できないことがストレスになるのを何としても避けたい。
 
 そういう自分の心身への意識を習慣にするにはまだ時間が必要で、油断するとすぐにまた怠惰な日々に戻り、体調も崩しやすくなるのが想像できてしまう。それがわかっているだけに、そして休日を休むことで精一杯にしないためにも、最近は自分の体調のケアを最優先にしている。
 
 仕事で会う人たちに、健やかな自分で向き合えるように、そして、やってくる連休には自信を持って会いたい人に会えるように、多忙な時期だからこそ、食生活と睡眠時間の管理に心血を注いでいる(ちなみに昨日までの4日間は、春特有の日中の眠気に抗うために、7.5~8時間の睡眠を確保し続けた)。
 
 当然ながら、8時間も眠ればさすがに体調は良く、それを継続したことで、疲労感はずいぶん軽減できた。ただ日中眠くないと言えばそんなことはなく、春の眠気の凶悪さに改めて戦慄した次第である。
 そして、4日働いて迎えたこの休日も、結局かなりの時間を眠ったうえで、まだ眠気が消えないでいる。気疲れも含め、かなり気合を入れて過ごしていたこともあって、疲労が蓄積しているのだと思う。
 
 仕事だと思えば無理をしてしまうように、休日であっても、何か予定を入れさえすれば、眠くても動けはするので、その眠気には精神的なものも大きいのだろうと思う。生活にメリハリを持たせられるような予定を入れるのが良いのだろうけれど、一番はやはり人に会うことで、結局それが最も難しい。
 
 時期的に仕方がないとはいえ、何かの目標があって頑張るという感じではなく、無事に生きることで精一杯なのだった。
 もう少しすればある程度の余裕は持てるはずなのだけれど、ただただ倒れるのが怖いと思う。
 
 心身への意識に一生懸命になっていると、さみしさを感じる余裕もない。
 仕事をしていない自分への承認を渇望する思いがどこかへ消えて、今はただ、仕事をしている自分をベストな状態にしたいと思っている。社畜化しているのかもしれない。でも、それが悪いことだとも思わない。職場の人間関係は何も悪くないし、やりたいことをさせてもらえているなかで、自分がどこまでの成果を出せるのか、追求したい思いがある。
 かつて、仕事外の自分を削るのは嫌だった。いや、今でも好ましいとは思えない。けれど、仕事外の充実を求めたら体調を崩すかもしれないという恐怖感が、最近はつきまとっている。何とかもう少し、体調管理をうまくできるように習慣を整えたい。余裕が出てきたらきっと、仕事をしているだけの自分に嫌気が差す瞬間も戻ってくるだろう。
 
 職場でも自宅でも、木軸のペンを握る。木の持つ温もりや重みは、長い時間を伴ってできた重みで、それを手元に見つめることは、時間の痕跡を見つめ、時間の流れに思いを馳せることにほかならない。目の前の体調管理に必死になる一方で、人間としての時間を積み重ねるなかで、自分にできることは何だろう、と遥か遠くのことを考え続けている、そんな日々である。