浮かばれない言葉の連なり

 多忙な仕事の反動は、無気力な身体と疲弊した精神を自室に封じ込める。
 
 信用したい人間からの連絡は途絶え、季節はめぐり、実感のない春が訪れた。
 写真を撮りに行きたい気持ちは空回りして、誘おうと思った人間にはどうせ断られるのだろうしこの先の体調も定かではないし、声をかけようとも思えないで生きている。かろうじて近くに桜を撮りに行けたことで、何とか心は保たれてはいるけれど、仕事の外の人間関係はどうやって保つのだったか相変わらずよくわからない。悩み始めると、自分に声をかけられても迷惑に思われるだけなのではないかと思い、結局どうにもできないでいるのだった。
 
 
 過ぎ去った人間関係を振り返ってときどき考えるのは、いったいどういう人間であれば、あの人と親しくなれたのだろう、ということだったりする。関係性が絶たれた事実だけがそこにあるのだから、それはそういう縁でしかなく、誰のせいでもない事柄の積み重ねの結果として受け入れるほかないのだけれど。それにしても。特に必要ともされず、大した価値もなく、ひっそりと重ねた努力にも意味がないまま、音も立てずに緩やかに消えていく関係性の何とも多いことか。
 
 振り返ること、内省すること、思考を進めて言葉にすること。そうやって考え込んだ先に、何かが見えると信じていること。もしかしたらそれ自体が間違っているのかもしれない。親しくなれなかったあの人のそばにいる人間は、そんなことを考えないような人なのかもしれない。解決のしようがない問題にうじうじと悩むこともなく、明るく楽しく日々を生きていて、今が楽しければそれでいいと言いながら、幸せそうに笑っている。誰かに必要とされるのはそういう人間なのであって、こんな自分では到底ないのではないか、何もかも、自分が自分であるせいではないか。そんなふうに思わざるをえなくなる。
 
 人間性、性格、人生観、身にまとう雰囲気、声、話し方、外見――人となりを構成する要素のうち、変えられない部分を自分で愛するほかないなかで、変えられなかった自分を悔いたり、自分にないものを持った誰かをうらやんだりして、意味のない時間を過ごしている。
 
 
 コロナを理由に会えない人間とは、コロナが収束しても会わない気がする。
 落ち着いたら行きましょうと言ってくれた人は、落ち着いたら自分ではない誰かとどこかへ行くのだろう。誰しもが忙しく、誰しもが自分のことで精一杯に生きている。「スケジュールの見通しが立たなくて」「連絡するきっかけがなくて」「連絡しようと思っても都合がつかなくて」「あなたも忙しいと思って」――声をかけたら返ってきそうな、何の罪もない言葉の群れ。
 どんな形であれ、他人と過ごすということは、貴重な自分の時間をその人のために空け渡してもいいとお互いが思わなければ実現しない。自分の時間なのだから、基本的には誰もが自分の幸せのために使いたいに決まっている。
 他人のそれを覆せるだけの理由が、自分自身にあるのだろうか。日々仕事に追われ続けるばかりの自分自身に。
 
 そんなふうに考えると、仕事をしていない時間を使って話したり会ったりできることが、途方もなく難しいことのように思えてくる。
 
 
 繁忙期がようやく収まり始める4月、仕事をしていないときの自分に向き合う時間が増えてくると、他者を求めてこんなふうな余計なことをよりいっそう考えてしまうのだろう。
 卑屈になっても人は離れていくだけなので、人前で現実を生きるとき、少しでも明るく振る舞うために、この場所を自己嫌悪の墓場にしようとしている気がする。成仏しない負の感情を鎮めるためには、ただ粛々と言葉にしていくしかない。これを読んで書き手を憐れむくらいなら、「そんな人間もいるのだ」程度に読み流して、あなたはあなたの人生を楽しく生きてほしいと思う(ここまで読んでくれた人に放つ言葉ではないかもしれないけれど)。