杭を打ち込むように

 連日書いたのなら三日目もという気持ちで、記事を書こうとしている。140字に収めるように書いて、笹船のように流れていくよりは、流れの中に一本ずつの杭を打ち込むようにして、文章を綴っていたい。

 

 特に何もしない休日を過ごした。雨だったこともあって、積極的に外出しようと思わなかった。かといって本が読めたわけでもないので、結構疲れているのだと思う。

 2月が終わって、3月になる。前にも書いたけれど、3月から一応新年度なので、明日から10年目が始まることになる。本当は忙しい日になるはずだったのが、社会情勢的に予定変更を余儀なくされた。結果として、思いのほか緩やかに始まりそうな気配がある。どうすることもできないことについては、それなりに考えつつ、どうにかできることについて、なるべく力を尽くしていきたい。

 

 

 竹西寛子さんの『式子内親王|永福門院』について、「式子内親王」だけ今の段階で読み終えていて、「永福門院」はこれから読むことになる。短歌についてはろくに詠むことはできないのだけれど、穂村弘さん、東直子さん、笹井宏之さんは長く好きでいる。「式子内親王」を読みながら、歌に詠まれた「目に見えないもの」や「実体のないもの」への眼差しについて、そしてそれが育まれる文脈について、思いを馳せることになった。短歌あるいは和歌のことを、うまく語る言葉が自分の中にはないのだけれど、言葉と言葉のつながりに見える詠み手の感覚や、選び抜かれた単語や助詞によって、物事の本質を射抜く鋭さに、ため息をつきたくなるほどの瞬間が、歌集には存在する。

 竹西さんの随筆は、歌の持つ魅力をご自身の選び抜かれた言葉で存分に語ることを通して、浮かび上がらせるものである。歌が歌として詠み手の思いを発露させ、その思いに共鳴するかのように、読み味わった竹西さんの言葉が響いてくる。和歌そのものの魅力を味わいながら、その解説の文章の秀逸さに打ち震えるような読書体験の、なんと贅沢なものであることか。

 

 と、日常のことから読書のことへ、思考した証のようにして、今日もここに一つ、杭を打ち込んでおきたい。