文具沼のほとりから【後篇】

 木軸のボールペン、LAMY2000ブラックウッドの書き味が良すぎる。


 手触り、握り心地、書きごたえと、どれをとっても素晴らしく、手で文字を書くことがそれほど好きではなかったはずなのに、ずっと書いていたいとすら思える。優れた筆記具は、使う人間の思考や習慣すらも変えてしまうのかと驚くほどである。

 

 ペンケースの購入で、一つの完成を見た手持ちの筆記具だったが、LAMY2000ブラックウッドが良すぎるせいで、木軸ペンへの憧れが募り始めてしまった。それはもはや、日用品ではなく工芸品を求める衝動に近い。たくさんのレビューによって、知名度が上がってしまった工芸品は、職人による手作業の賜物なので、生産が追いつかず、入手も困難を極める。しかし、入手が困難であることがさらなる欲求を呼ぶのは言うまでもない。


 長野県の工房、野原工芸の木軸ペンは、2022年上半期の予約はすでに終わっているし、工房楔の木軸ペンは抽選販売が主だ。とてつもない世界だなと思いつつ、その抽選にとりあえず応募だけしてみた。これが沼かと思いながらも、もうすでに引き返すことができないところに来てしまったことを感じる。でもそれは決して不幸な思いではなく、趣味が一つ増えたという悦びのようなものである(何よりカメラのレンズ沼より出費は明らかに抑えられるので、こちらのほうが安全とさえ言える)。

 

 と、そういったことを含め、前篇の記事から、今回の内容はすべて、一度LAMY2000による手書きで下書きを行ったものを、キーボードで打ち直して文章にしている。「ずっと書いていたい」を実現するために、書くことを自分の内側に探したらこうなった。年明けから読書の記録ばかりで、雑記を書いていなかったこともあって、ちょうどよいかとも思った。

 

 竹西寛子さんの『式子内親王|永福門院』の記事で、観念と分離できない身体性、ということについて触れたけれど、ボールペンで下書きをしながら思ったのもまさに、手で書くということの身体性である。

 

 書き手の思考や精神を、言葉や文章として表出するとき、筆記具はその仲立ちをする媒体になる。そこには、思考が文字になって視覚化されるまでの間に、書く(綴る)時間のラグが生じる。丁寧にゆっくり書こうとすれば、一文字書く時間の間に、言葉が言葉にならずこぼれ落ちてしまいそうになる。一方で、キーボードによるタイピングは、慣れてしまえばペンで書くよりも速く、生じた瞬間の思考を直接に文字に変換、アウトプットすることが可能になる。文字化以前の感情や思考を、目の前に具現化できてしまえるという点で、キーボードによる文章表現はまさに、「思うまま書ける」感覚で綴っていけるものである。

 

 そういう理由で、文章は専らキーボードで書くものだったのだけれど、長く息づいたその習慣を、LAMY2000が覆そうとしている。
 手書きで文字を、文章を書くとき、書くまでのわずかな時間のラグで、こぼれ落ちてしまう思いや思考がある。それは、思考として秩序だったものになる以前の、いわば思いの混沌のようなもので、本来、表現というものは、自分の内側に渦巻く混沌とした思いを秩序だった思考に整理し、それを把持する状態を経て、文字になって書き表されるものだ。手書きで文章を書くには、頭の中で、言葉の連なりを文章として把持できなければならない。把持できない思いは文章化できず、思考の隙間にこぼれ落ちてしまうからだ。手書きという方法で、考えたことを丁寧に文章にすることには、思考を把持し続けられるだけの精神力を要する。そして、キーボードで書き慣れることは、この「把持する力」を衰えさせることなのではないだろうか。

 

 さらに言えば、普段キーボードでしか文章を目に見える形にしないとはいっても、思考を言葉として把持する力は、言葉を声に出して発する際にも影響を及ぼすものであるような気がする。手書きによるペンの働きをするのは声であり、思ったことをまとまった文章として声に出そうとするとき、そこにも把持する力は働いている。その把持を放棄するとき、取れる選択は、それを言わない(沈黙)か、思いつくままにしゃべってしまうかのいずれかである。

 

 思いつくままにしゃべってしまう、というのは、言葉を選び抜き、吟味するという過程の放棄でもある。感情を、感情のままぶつけるには、それは有効な方法かもしれないけれど、表現としてはどうしても、拙いものにならざるをえない。
 浮かんだ思いを表す言葉を自分の内面から探し、並べ、文として練り上げ、全体を俯瞰し、細部を凝視することを通して、ようやく確固とした文章の形で表現する。文字として書くにしても、声に出して発するにしても、血の通った言葉、相手に届く言葉というのは、本来そういうもののような気がする。

 

 原研哉氏が著書『白』(中央公論新社)のなかで書いているのも、それに近いものがある。

 白は、完成度というものに対する人間の意識に影響を与え続けた。紙と印刷の文化に関係する美意識は、文字や活字の問題だけではなく、言葉をいかなる完成度で定着させるかという、情報の仕上げと始末への意識を生み出している。白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為は、不可逆な定着をおのずと成立させてしまうので、未成熟なもの、吟味の足らないものはその上に発露されてはならないという、暗黙の了解をいざなう。 p.68

 

 キーボードで文字を混沌のまま打ち込み、表現することに慣れてしまうと、その「暗黙の了解」が、無限に書き換え可能な意識へといつの間にか転じ、発露される言葉を軽んじはしないだろうか(ましてやスマートフォンでは、予測入力・予測変換により、書き手の思考はAIの介入を受けることになる)。

 文字ではなく、声になった言葉が人の心にもたらすものもまた、不可逆である。「そんなつもりで言ったのではない」といくら言い訳しても、手書きの文字と同じように、それを言われた相手には、確かな痕跡が残り続ける。人間は忘れる力を持っているが、一度深く刻まれた傷は、ふさがったとしても傷跡としてそれは消えない。

 

 文房具の話から、ずいぶん遠くまで来てしまったけれど、書き心地の良いペンで文章を書くことが、そのような思考の推進力となった。思考を言葉として把持する心がけと、思いが言葉になるまでのわずかな時間を、大切にできるようにしたい。愛着の湧く筆記具が、そんな心がけを教えてくれた。さらなる筆記具への愛着が、深まるばかりである。