閉じられた表現をまとって

 鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』(ちくま文庫)を読了した。

 

 著者が高校生に向けて語るように書いたもので、平易な言葉で服装を通した自己と他者に関して書かれている。主題であるファッションとはあまり関係のないところで、いろいろと思うところがあったので、記事にすることにした。

 

 自分の姿は自分では見ることができない。自己は、他者にとっての他者として、意味のある存在とみなされることで初めて自分の存在を実感できる。その説明の中で、教師や看護師の例が、以下のように挙げられていた。

 

 教師や看護師である自己と、生徒や患者である他者の間には、教える・看護する/教えられる・看護されるという関係が成り立つ。自己は、教育や看護を受ける他者から規定されることで、アイデンティティが補強されるという面を持つが、自己の側が「教えてあげる・看護してあげる」という意識を持ってしまうことによって、この関係がなくても〈わたし〉でありうると錯覚してしまう、という。

 

 わからなくはないのだが、その程度の錯覚で済むならむしろ良いほうではないだろうか、と思った。
 教師も看護師も、四六時中その仕事をしているわけではない。仕事という〈服〉を脱ぐ時間もまた、その人であるはずだ。その、仕事のうえでの「する/される」という関係が取り払われたとき、教師や看護師という〈服〉をまとっていない自分は、いったい誰にとっての何であるのか、わからなくなるのではないか。仕事をしている自分なら、他者にとって何かしらの意味ある存在になれていたとしても、仕事をしていない自分に意味や価値などないのではないかという気がしてくる。そんなことを思った。

 

 だから、鷲田氏の言う「〈わたし〉でありうる錯覚」よりも、こういった〈わたし〉であることが確かめられない錯覚(それが錯覚であればよいのだが)のほうがよほど苦しい。他者から意味ある存在として規定されないとき、自己は「じぶんで『他者の世界のなかに妄想的に意味ある場所をつくり上げる』という絶望的ないとなみのなかにじぶんを挿入していかざるをえなくなる」(p.133)と鷲田氏は述べているが、この仕事上の「する/される」という関係がもたらすのは、仕事に日常の多くの時間が割かれたとき、生身の自己が、誰からも認めてもらえないことへの恐れや不安なのである。

 

 この恐れや不安を拭う手立てが見つからないとき、できることは、その感情を意識しないために、いっそう仕事に没頭するしかない。仕事上の「する/される」関係によって得られる他者からの規定を励みにして、問題の本質から目を逸らすほかないのである。

 仕事をしている自己も、紛れもない自己の一つではないか、その自己が肯定されるのだから、それでいいのではないかという考え方もあるだろう。だが、パブリックではなくプライベートな部分を分かち合うことへの欲求を人間は持っているはずで、それが満たされないという渇きは、やがて痛みとなって現れてくる。

 

 次なる仕事に向けて、休むこともまた仕事の一部となってしまう繁忙期にあって、自己が他者にとって意味あるものとなることを願い、できることは、何かを表現し、発信すること、そして、自ら他者の存在を認めようと働きかけることである。

 そこで、特に後者の働きかけを行うとき、次に生まれる葛藤がある。それが、「見返りを求めてしまう期待」とどう向き合うか、ということだ。

 

 自己が他者にとって意味あるものとなっていることを、何らかの形で確かめたい、という思いが、そこにはどうしてもつきまとう。見返りを求めない利他精神に振り切れるほど、誰もが悟りの境地には達していないだろう。だから、他者に対して何らかの働きかけを行ったとき、反応が何一つない場合、そこに身勝手な堪えがたさを覚える(開かれた場所での発信なのに、閉じられたままの自己を突き付けられる)。

 だから、「他人に期待しないこと」を自分の約束事に掲げ、それを意識しながら生きていられる人を、本当にすごいと思ってしまう。そして案外そういう人のほうが、他者からの承認を得られていたりして、嫉妬や羨望を感じてしまう悪循環が始まる。比べても意味はないのに、他人との比較でさらに卑屈になる。

 

 生きることのなかにはそういう思いが少なからず生じ、それと折り合いをつけながら日々を刻んでいくのが、人間としての当たり前なのかもしれないけれど、いまだにこの葛藤を、うまく克服したり(あるいは乗りこなしたり)できていない。

 

 感染が拡大し、先が見えないなかで、できることは限られるけれど、それでも少しずつ、このブログを読んでくださる方々は増えているのを実感する。そっと読まれることで、誰かにとって意味ある何かとして認めてもらえているならそれほど嬉しいことはないけれど、そこに見返りを求めてしまう人間的な未熟さを、何とかできないものかとつくづく悩ましい。