磨り減った革靴のぶんだけ考えたこと

 最終面接前夜ということで、眠りにつけそうもないので、久しぶりに自分の気持ちを整理しようと思う。長らく就職活動のことはここに書くことをやめていたけれど、それはある意味、書かずにいられたとも言えるのかもしれない。


 必死になって、自信を持ってとか、楽しんで挑むとか言いながら、とにかく身を粉にしていると、その場その場で考えをめぐらせたことが言葉になって溢れて当然で、とりあえず誰かに話すか、びっしりと書くかしないと心が持たない。改めて6月ごろの日記を読み返すと、就職することへの意識の甘さだったり、うまくいかない自分の分析の拙さだったりが露骨に出ていて堪えがたいのだが、それでもそのときの自分は必死で、必死になって失敗を繰り返してきたから、やっぱり今の自分がいる。


 二度目の最終面接、と書いて思うのは、これだけ受けてまだ二度目なのかということだったりする。これまで、最終面接一つ手前の壁というのがどうしても高く、厚かった。
 原因は様々あって、断定的に書くことは不可能だと思うけれど、6月ごろの自分と現在の自分とを比べて一つ言えるのは、仕事をしていくことで自分に、身近な人間に、そして世の中に対して、こういうふうに働きかけたいという思いの強さがまったく異なるということだろうと思う。


 自分がどんな仕事をしたいか、仕事をすることでどうなりたいか、という方向は、まず就職先を考えるうえでイメージすることではある。そして、関わっていくひとたちにどういう影響を与えられる人間でありたいか、ということも、考え始めてはいた。
 ただ、その先、もっと広い視野で、仕事をすることで世の中に対して、社会(社会という言い方が不十分なら世界でもいい)に対してどういう働きかけができるか、という点は、どうしても具体的に考えきれていなかったと思う。


 企業に勤めて仕事をすることを選ぶ覚悟ができたところで、働くことで自分と身近な他者以外のものに対してどういうスタンスを取っていくかという目的意識を持っていないかぎりは、採用担当者には宙に浮いた熱意だけしか伝わらない。
 自分がこうなりたいとか、これがやりたいとか、社員同士の雰囲気や職場の環境が良いとか、その点だけに終始してしまうと、どうしても浅い。内定がほしくて一生懸命になると、働き始めてからの自分のことまでなかなか頭が回らないのである。
 企業に身を置いて、人間としてどうなっていきたいかということを考えることは、広く世の中に対して自分がどのような影響を与えていけるか、社会に何をもたらせるか、何によろこびを見い出せるのかを、過去の自分と重ね合わせて一本の線として考え出すことなのだと思う。


 これまでの人生で積み重ねてきた考え方なり経験なりを、就職してからの自分と結びつけるのは、やっぱり未知のものに考えをめぐらすことだからそう簡単なことではなくて、だからこそいろんな迷走があった。
 どういう場所なら自分は生きていけるのか、自分のことゆえにはっきりとはわかりにくい。今となってはなぜそんな場所に身をおいてやっていけると思ったのか、考えられないような企業にも目を向けたこともあった。でも、何にも無駄になっていない。


 これからまさに最終面接に臨む企業が、自分の目指すべき姿や働き方としっかり合致しているかどうかは、やはり相手が判断することだから自分では断言するべきではないと思う。ただそれでも、ここまで来た道のりを考えれば、強い縁のようなものはあるんじゃないかと思っている。


 正直に言って、二次面接で落ちたと思っていた。表面的な質問は一切されず、自分の軸にひたすら迫ろうとする面接に、言葉を詰まらせながらも必死に伝えようとしたことが、なんとか報われた。回り道をしながら少しずつつくり上げてきた軸を、とりあえずは肯定してもらえたことが素直にうれしかった。


 やっと、あとひとつ。別にいい答えをしようとか、良く見せようとかいう意識は何も持たなくていいのだと思う。これまで考え抜いてきたことをありったけの言葉で表現するだけである。絶対に落ちたくはないけれど、落ちたところで自分の軸はもう折れない。実践する方法は他にいくらでもあるだろうし、明日の企業がすべてではないとも思っている。


 面接は、未来の上司と自分の目標を語り合う場であり、夢を見据えたうえで、足元にある現実といかに向き合っていくか、自分の考えてきたことを伝える場である。まだまだ考え足りないところはあるけれど、現在の自分の精一杯が結果に表れると思う。


 ……ここまで書いて、じゃあその自分の軸がどういうものなのか、ということは何も明らかにしていないことを思う。本当は具体的な業界だったり企業名を挙げて書きたいのだけれど、そんなことはネット上に到底書き得ないから、どうしても今までうまく日記が書けなかった。就活のことを書きたくないと言った理由の一つにはそういうこともあるのだと、今さらながら書いておきたい。