【掌編】落日

 読みかけの本が、読み終わらないまま終わる休日。書きかけの手紙や、色を塗っていない絵の下書き、編みかけのマフラーに、貸しっぱなしの小説。人間は生きているかぎりずっと何かの途中にいる。そして、自身の終わりを経験することはできない。
 本を読み終えても、作っているものが完成しても、大きな仕事を終わらせても人生は続く。彼氏と別れても人は生きなければならないし、結婚したとしてもそれがゴールでもない。何をどう選んでも、それらはすべて、一つの終わりに向かってゆっくりと進んでいる。
 手を洗う。水が流れていく。
 平らなように見えて、わずかに傾いている大地の上で、重力に従ってそこを流れていく水のように、すべてはある一点に向かって静かに流れていく。
 人も物も自然も、存在しているものは等しく、その斜面の上にいるのかもしれない。そんな想像が時折浮かぶ。地球が球面であることを誰も意識しないように、その傾きには誰も気づかない。
 地面に杭を打って、そこにとどまってみようとしても、その地面すらも、緩やかで穏やかなその流れの上にあって、静止させることはできない。滝壺みたいな場所があるのかどうかわからないけれど、そんな終わりはおろか、始まりすらも、私たち人間には何もわかっていないのだ。
 わからないから考えても仕方がない、とは思わない。むしろ、考えてあるとき突然わかってしまったら、そっちのほうが怖いと思う。深刻な世界の秘密を抱えたまま、私は残りの生をまっとうできる自信がない。自分だけが気づいてしまったそれを誰かに話したところで、きっと信じてはもらえまい。
 こんな考えごとはもはや癖のようなもので、誰に話すでもなく、浮かんでは消えていく。


 窓から差す西日を感じて、私はカメラを手に、家を出た。
 何もない休日の終わりには、よく近くの溜池に行くことにしている。特別な何かがあるわけではない山沿いの田舎町にあって、山の向こうに沈んでいく夕陽がその溜池に反射する、一日の終わりの景色が私は好きだった。遠くから建ち並ぶ鉄塔の一つが、溜池の水面に上下の対称をなす。
 冬の入口、風は冷たいけれど、立ち止まってじっとカメラを構える。
 今日は晴れてはいるものの、雲が出ていて、沈んでいく太陽にちょうど重なっていた。
 ファインダー越しにそれを見つめる。眩しくならないように感度を下げレンズを絞ると、稜線と鉄塔は黒い影の輪郭だけになり、中央に雲の中で燃える落日が浮かび上がる。
 シャッターを切る。
 少しずつ立ち位置を変えて、溜池に映る夕焼けを、私は何度も撮り続ける。
 写真を撮ることは、記録を残すことだけれど、私がこの景色を撮るのは、何かをとどめたいからでも、それを見せたいからでもなかった。すべてが終わりへと向かうことを思いながら、どうして撮るのかと考えてみたところで、それが美しいというだけでじゅうぶんじゃないかと思う。太陽は毎日沈むのに、一日たりとも同じ落日はない。だから、それを撮る私もいつだって昨日と違う私であるはずだ。

 救いも破滅もない世界に、私は祈りを捧げるようにシャッターを切る。
 日が沈んだ。空には濃紺が広がり、辺りは薄暗くなっていた。カメラを鞄にしまった。
 私は泣いていた。