失われつつある情緒を求めて

 岡潔『春宵十話』(角川ソフィア文庫

 

「人の中心は情緒である」と始まる数学者のエッセイは、響いたり刺さったりする言葉が多かった。

 数学という、論理の極北にあるような営みも、それは自然との調和を抜きにしてはかなわず、それを可能ならしめるのは人間の情緒なのである。エッセイなので、評論のように、その情緒とはいかなるものかという定義づけがあるわけではないけれど、岡潔はそれを、自身の少年時代を回想するなかで語り続ける。

 

 自然に親しむことや、よく遊び、本を読むこと。そして人と人との間で育まれるもの。大切にしなければならないそれらの経験や機会を担うべき教育のあり方が、戦後どんどん悪いほうへと向かってしまっていると、その危惧が綴られる。

 1960年代ですでにそうなのだから、2022年の教育現場を岡潔が見たら、嘆くどころの騒ぎではないだろう。もちろんすべてを変革することなどできないけれど、教育と、人間の本来のあるべき姿というものを、ろくに考えもしないでものを言うというのが一番愚かなことだと思う。自分が何をやっているのかわからないでそれを行う、ということに陥ってはならない。

 

 教育は、具体を抜きにした抽象的な知識の伝達ではない。頭を使って考えるとは言うが、脳は身体と、それを取り巻く自然とは切り離せないものだ。身体性という観点は、山崎正和氏が扱う内容とも通ずるものがあって、腑に落ちるところが多かった。特に印象的だった箇所を引用して肝に銘じておきたい。

 

 ――敬虔ということで気になるのは、最近「人づくり」という言葉があることである。人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う。p.72

 

 ――何よりいけないことは、欠点を探して否定することをもって批判と呼び、見る自分と見られる自分がまだ一つになっている子供たちにこの批判をさせることである。こうすれば邪智の目でしかものを見られなくなり、本当の学習能力はなくなってしまうのである。こましゃくれたクラス活動、グループ活動もいっさいいけない。そんなひまがあれば放任して、遊びに没入させるに越したことはない。p.123

 

 読んでいて痛快で思わず笑いそうになったが、いずれの事象も笑えないレベルで現代に浸透しているのが悲しい。

 

 読むきっかけは愛読している方がいたからだけれど、今読むことができてよかったと思う。『春風夏雨』も読みたいと思った。