読めなかった本を読むために

 読もうとして、うまく自分の感覚と合わなかったり、難しいと感じたりして、挫折してしまった本がたくさんある。それらは、挫折したとはいっても、人生において一度は憧れ、自分の糧としたいと願った本たちであり、文学史上に名が刻まれている以上は、その刻印を自分の手でなぞってみたいと思うものである。何かの折に思い出しては、かつて読めなかった本だったと悔やみ、読み進められなかった記憶に触れる。いつしかその事実だけが重みを増し続け、そのまま記憶の底に沈み込んで忘れ去られているものもある。

 

 詳細は書かないけれど、仕事の関係上というか仕事柄というか、「これは難しくて読めない」と発言することが許されない立場になったような気がしている(あくまで気持ちの問題なのだけれど)。そして同時に、そういう立場での経験を通して、大抵のものは読めるようになってきた気もしている(興味・関心や好みに左右される部分はあるが)。

 

 だから、今年は特に、一度読もうとして読めなかった作家の作品に挑みたいと思っている。主に大学時代に手を伸ばしたものがその対象となる。
 評論を読むようになったからなのか、はっきりした理由はわからないのだけれど、漠然と、もしかしたら挫折した数々の本を、そろそろ読めるかもしれないと思った。あるいは、うまく読めないとすれば、何がどういう理由で読めない(読みにくい)のかを言語化したいと思った。

 合わないとか、難しいとか、何かしらの理由をつけて読むのをやめるのは簡単である。けれどそこで、なぜ合わないのか、なぜ難しく感じるのかを考えずに終わるのは残念な思考停止であって、単なる逃げだろうと思う。勝ち負けなどないけれど、通読できれば勝利と言えるし、読めないなら読めないものとして、正面から敗北を味わうのもまた一興ではないだろうか。負けたところでまた時間をおいて挑めばいいのだから、結局逃げるのが一番もったいない。

 人生は有限であり、それはすなわち、読み通せる本の数もまた有限であるということだ。限りある一生、好きなものを読み深めるのも大切だけれど、似たようなものばかりを読んで感性が凝り固まっては台無しで、新鮮な物語への驚きや、色褪せない表現への衝撃を、吸収し続けられる心の柔らかさは保っていたい。

 

 そういうわけで、通読したい作家を挙げておく。
 なお、下記はかつて挫折した作家に加え、挫折したわけではないけれど、通読した本が少ない作家も含んでいる。

 

 ①泉鏡花  ちくま文庫の日本文学全集を買ったのに、「高野聖」をまともに読めていない。
 ②古井由吉 『夜明けの家』、『木犀の日』を持っているのにいずれも読めていない。どうせなら長篇『槿』を読みたい。
 ③横光利一 「春は馬車に乗って」だけを読んだ。『家族会議』を読みたい。
 ④川端康成 『雪国』だけ読んで、『掌の小説』が途中、『伊豆の踊子』、『古都』は買って置いてある。
 ⑤夏目漱石 『坊っちゃん』と『草枕』を読んだが『吾輩は猫である』を読んでいない。

 

 主にこの5名。理由はそれぞれ書いた通りである。特に泉鏡花については、今改めて手に取って「雛がたり」を通読し、「高野聖」の冒頭を読み始めたら、これは大丈夫だろうという手応えがあった。読み終えることができれば、ここに感想を書きたいと思う。

 

 ちなみに、今回挙げた作家は日本文学にとどめたけれど、もちろん別枠でプルーストは読み進めるつもりでいます。そして、もし上記に挙げた作家の作品で、「それならせっかくなのでこれをぜひ読んでください!」というものがあれば、教えていただけるととても嬉しいです。読書という無数の孤独な営みの向こうに、先に読み終えて待っている誰かがいるというのは、道しるべの灯火のように心強いものです。小さな松明に火をくべる気持ちで、よろしければそっと教えてください。