神なき時代の切実な祈り

 戦後の日本において、信仰とは何なのか。誰もが平和を希求しながら、正義そのものの価値が崩れ、混迷する時代。神などどこにもいないという諦めが寄り添い、どのように生きてゆくべきか、迷い、悩み、惑い、苦しむ闇の中に、そっと一条の光が差し込んできたら。救いを信じて、人々は一心に祈り始めるだろう。それが、たとえ邪教であろうと。


 高橋和巳 『邪宗門』上・下(河出文庫


 始まりは昭和六年、京都の神部という山村に、母を亡くした少年、千葉潔が訪れる。母の遺した言葉を頼りに、その地にある教団「ひのもと救霊会」を訪ねた千葉潔は、衰弱しきったところを、教団に所属する老婆、堀江駒に拾われる。
 約1200ページにわたるこの小説は、そこから敗戦後までの期間を描き、架空の新興宗教「ひのもと救霊会」に拾われた千葉潔が、教団の教主となって国家からの独立を求め、激動の中を生き抜く壮絶な長編である。


 著者の高橋和巳は、「日本の精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたい」というのが発想の端緒であるとあとがきで述べている。世間では〈邪宗〉とされている新興宗教の側から、国家のあり方、信仰の姿を見つめることで、宗教という言葉が持つイメージを取り去った、一つの真理をあぶり出す試みだと言える。
 そしてそれは既成の価値観が次々に揺らいでいく現代のわれわれにとっても、いかに生きるべきか、何を信じて生きるべきかを切実に問うてくるように思えた。戦後から七十年が経ち、もはや新たな戦前とすら言われる現代において、改めて読み直されるべき小説ではないかと思う。


 ただ、信仰というものに対する示唆を与えてくれるのみならず、『邪宗門』は教団に生きる個性的な人々の姿を実に見事に描いている小説である。教主でありその豪放磊落な性格から信徒の絶大な支持を受ける行徳仁二郎、美しさと人を惹きつける魅力を持ちながらも男勝りなその長女阿礼、足が不自由なため、教主の次女でありながら、堀江家で育てられている心優しき阿貴、その義姉の、大人しくも芯のある民江、そして民江の祖母であり、阿貴の世話をしながら千葉潔の面倒を見る駒――
 それだけではない。教団に生きる人々は、実に生き生きと描かれ、弾圧のなかにあっても信仰に生きている。作品そのものが、彼らの半生そのものという見方も可能である。
 生き延びた千葉潔が、教団に、堀江家になじんでいく過程での微笑ましいやりとりや、少しずつ大人へと成長していく彼の姿は、読み手を引き込むのに充分すぎる役割を果たしている。
 さらに、戦後、武装蜂起し破滅に向かう教団の姿を、その過去が、よりいっそう悲痛なものとして映し出す。結末まで読み終えたとき、彼らを邪宗と一言で葬り去ることがどうしてできよう。


 神も仏もない境地で、私たちはいかにして生きるべきか。正しいものなどないのかもしれないけれど、それでもなお、歩まねばならないとき、人は何を信じ、進んでゆけばよいのか。


 著者の死後も決して褪せることなく、時代に照らされていっそう妖しく輝きを放ち始める傑作である。